So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

虚心平気 [『歎異抄』を聞く(その107)]

(7)虚心平気

 満之が言っていますのは、「業報にさしまかせる」とは、何も思わず、何もしないで、ただじっとしているということではなく、そのときどきのこころの動きのままに身をまかせるということです。大地震が来たとき、ただ茫然とその場にうずくまるのではなく、走り出ようというこころが動けば、そのこころのままに一目散に走り出るし、その場に居ようというこころが起これば、そこに居つづける。もしこころがどちらにも動かなければ、動くのを待つ、ということ。孔子の言い方では「心の欲するままにしたがう」ということです。
 肝心なことは、走り出るにせよ、そこに居つづけるにせよ、狂乱することなく「虚心平気」であるということですが、どうして「虚心平気」でいられるのか。それは満之によりますと「無限大悲の指令」にまかせているからです。ここに鍵があります。宿業を自覚し、宿業にすべてをゆだねることは、本願に目覚め、本願にすべてをゆだねることに他ならないということです。しかしこんなことを言いますと、とうぜん疑問の声が出ることでしょう、宿業と本願との間にどんなつながりがあるというのか、どうして宿業にまかせることが本願にまかせることなのか、と。
 ちょっと先を急ぎすぎたようです。もういちど宿業を自覚するところに戻りましょう。よきこともあしきことも、みな宿業のもよおしによると自覚するのは、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」と思い知るからでした。さてしかし、こころの中のどこを探しても「まことあることなし」と自分で思い知ることはできません。自分で思い知ったという以上、「まことあることなし」ということ自体はまことであると思っているはずで、少なくともこの一点はまことであることになり、ここには深刻な矛盾が生じます(これまで「嘘つきのパラドクス」として紹介してきたことです)。
 「みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」がナンセンスではないとしますと、これは自分で思い知ったことではなく、どこか向こうから思い知らされたと考えるしかありません。そしてそれは、「まことあることなし」と思い知らされたとき、そこにはすでにひとつの「まこと」が与えられているということを意味します。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

流れに身をまかせて [『歎異抄』を聞く(その106)]

(6)流れに身をまかせて

 「われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおも」うのは「そらごと」であり、よきこともあしきこともみな宿業による、というのが親鸞の立ち位置です。ここから出てくるのは、どうジタバタしても「みなもてそらごと」なのだから、成り行きにまかせてじっと静観していよう、という姿勢でしょうか。唯円も第13章の後の方で「されば、よきこともあしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまいらすればこそ」と言っていますが、「業報にさしまかせる」とは、宿業に身をゆだねるということでしょう。
 前に出てきました「義なきを義とす」(第10章)も、はからいのないことが大事だということですから、ただ流れに身をまかせるのがよいということになるのでしょうか。
 さてしかし、順境にあるときは、そのまま成り行きにまかせるのは問題ありませんが、いったん逆境に陥りますと、じっと静観しているわけにはいかないでしょう。何とかしなければならないとジタバタすることになります。身体の調子が悪くなったとき、仕事がうまくいかなくなったとき、家族のあいだがギクシャクしてきたときなど、どうすればいいだろうと、ない智慧を絞ることになります。下手の考え休むに似たりと思っても、何も考えず、何も手を打たないわけにはいきません。逆境にそのまま身をゆだねるというのはできそうにありません。
 清沢満之はおもしろいことを言っています(「精神主義と他力」)。「大地震轟し来りて家屋将に顛覆せんとするとき、走り出ずべきか、走り出ず可からざるか」と問います。そしてこう答えます、どちらが災難を避けられるかは「吾人の知見し得る所にあら」ず。「知見し得ざることに対して狂乱するは無用」であるから、「一(ひとえ)に無限大悲の指令に待ち、若し走り出でんとするの念起こらば、驀直に(まくじきに、まっしぐらに)走進し、若し走り出でんとするの念起らずば、泰然として安座すべきなり」と。では「他力の指令が判然たらざる場合は」とさらに問い、そのときは「勉めて虚心平気に指令を待ちつつ満足すべきなり」と答えます。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

リゴリズム [『歎異抄』を聞く(その105)]

(5)リゴリズム

 カントに軍配を上げたい気持ちになります。われらに虚仮のこころがあるのはもちろんだが、でも理性の命令にしたがい「自己や他者を単に手段としてのみ扱うことなく、つねに同時に目的として扱う」こともできるではないか、そこにわれらの自由の証明があるのではないかと。しかし親鸞はそれに対してこう言うでしょう、たしかにわれらもよいことをすることはあるが、それは宿業のもよおしによるのであり、よいことをしようとしてするのではない。よいことをしようとするときは、すでにそこに虚仮が潜んでいる、と。
 理性の命令にしたがわなければならないからしたがうこと(これがカントによれば純粋に道徳的です)のどこに虚仮があるのかと言われるかもしれません。それこそ人間としての最高の尊厳ではないかと。しかし悪のにおいに敏感な親鸞は言うでしょう、理性の命令にしたがおうとするとき、そこに自尊の思いはないか。利己の思いをはなれて理性の命令にしたがおうとしている自分に酔ってはいないか。「どうだ、自分はたいしたものだろう」という驕りはないか、etc.
 カント倫理学はリゴリズムだと評されます。あまりに厳格であると。どんなに結果がよくても、その動機に少しでも不純なもの(理性の命令に反するもの)があれば、それは悪だというのですから。しかし悪の感覚で言えば、親鸞はそれに輪をかけて厳格です。「卯毛羊毛のさきにゐるちりばかり」の虚仮も見逃さないのですから。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなし」と言ってはばからないのですから。
 さてしかし、ここから先が問題です。もし親鸞が言うように、われらには虚仮のこころしかなく、「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと」だとしますと、われらの思うこと、なすこと、何もかも虚しくならないでしょうか。何を思おうが、何をなそうが、「みなもてそらごと、たわごと」だとしたら、もうどうだっていいじゃないかとやけっぱちにならないでしょうか。これは繰り返し考えてきたことですが(第8回-8、第9回-13)、別の角度から改めて検討してみましょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

虚仮のこころ [『歎異抄』を聞く(その104)]

(4)虚仮のこころ

 いかがでしょう、カント倫理学には人間の理性に対する全幅の信頼が見られます。われらは理性の命令に従って善をなしうると言うのです。そしてそこに人間としての尊厳があると。しかし親鸞は言うのです、よきこともわるきことも、みな宿業のもよおしによると。どこからこのようなものの見方が生まれてくるのかを考えるにあたって、突然ですが善導のことば「不得外現賢善精進之相内懐虚仮(ふとくげげんけんぜんしょうじんしそうないえこけ)」を取り上げたいと思います。
 これは普通に読みますと、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことをえざれ」となります。外に善人づらしながら、内に悪の思いをもつなかれ、ということです。このことばは善導が、『観経』に「往生するには、至誠心、深信、回向発願心の三心をもたねばならない」とあるのを注釈するなかで、至誠心(しじょうしん、まことのこころ)について述べているものです。善導を重んじた法然はもちろんこれを『選択本願念仏集』に引用していますが、その読みは上に示したものだったでしょう。
 ところが親鸞はこう読むのです、「外に賢善精進の相を現ぜざれ、内に虚仮を懐けばなり」と。これは少々無理筋の読み方と言わざるをえませんが、親鸞としてはこう読むしかないのです。そしてそこに親鸞の感性がはっきりあらわれています。ふたつの読みの違いは明らかでしょう。前者は虚仮のこころを捨てて真実のこころになれると思っているのに対して、後者はどう踏ん張っても真実のこころになどなれるわけがないと思っています。われらは骨の髄まで虚仮のこころで満たされていると。
 カントのように、悪人であっても、理性の命令にしたがって善をなしうる、と見るか、それとも親鸞のように、われらは根っからの悪人であって、そこから抜け出ることは金輪際ないと見るか。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

宿業のもよおし [『歎異抄』を聞く(その103)]

(3)宿業のもよおし

 さて第13章です。ここは「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはせらるるも、悪業のはからふゆへ」であるにもかかわらず、「われらがこころのよきことをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて願の不思議にてたすけたまふといふことを、しらざる」ことが批判の俎上にのぼせられます。これまでも機会あるたびに宿業について言及してきましたが、ここで改めて宿業を主題として、その含意するところをさまざまな角度から検討していきたいと思います。
 この箇所は第9章と同じく、親鸞と唯円の対話形式で書き進められ、そのことで読むものに強いインパクトを与えます。親鸞から「悪人こそ往生できるという本願だから、ひとつ人を千人殺してみなさい、そうすればかならず往生できますよ」とおそらく冗談半分に言われて、「おほせにはさふらへども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼへず」と答える唯円。ここには何でも腹蔵なく言いあえる師弟の間柄が感じられ、ほのぼのとした印象が与えられます。
 さてしかし、よきこともあしきことも、みな宿業のもよおしによる、ということを腹の底から納得できるでしょうか。
 ここで頭に浮かぶのがカントです。彼の有名なことばとして「いつも感嘆と畏敬をもってこころを満たすものが二つある。わが上なる星のかがやく天空とわが内なる道徳律である」(『実践理性批判』)というのがあります。彼の倫理学は「最大多数の最大幸福をもたらす行為が善である」と考えるイギリス流の功利主義に対して、「行為の結果ではなくその意志が善でなければならない」と主張します。つまり、ある行為がどのような結果をもたらすかではなく、どのような意志(動機)でなされたかが問題であり、理性の命令(道徳律)に従う意志によってなされた行為が善であるとします。
 彼は理性の命令をいろいろなかたちで定式化していますが、そのひとつが「自己や他者を単に手段としてのみ扱ってはならず、つねに同時に目的として扱わねばならない」というものです。そしてカントはこう言います、「汝なすべきがゆえに、なしあたう」と。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

異義8カ条 [『歎異抄』を聞く(その102)]

(2)異義8か条

 前回までで前半の「故親鸞聖人の御物語」10か条が終わり、その後に「上人のおほせにあらざる異義ども」8か条に対する唯円の批判が続きます(本来こちらが『歎異抄』のメインであることは書名が示しています)。それをすべて読んでいくのが筋ですが、今回は親鸞自身のことばが出てくる第13章に絞って見ておきたいと思います。その前に異義8か条の内容をかいつまんでお話しておきましょう。

 第11章 ほれぼれと念仏している人に向かって「なんぢは誓願不思議を信じて念仏まうすか、また名号不思議を信ずるかと、いいおどろかす」こと。これは、もともとひとつである本願(信)と名号(行)を別ものとした上で、どちらをとるかと迫るのです。
 第12章 「経釈をよみ学せざるともがら」は往生できないと脅すこと。「われらがごとく、下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかる」というのが親鸞の教えであると一喝します。
 第13章 「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは」往生できないと脅すこと。これは「本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえ」ていないと批判されます。今回はこの段を取り上げ、親鸞の宿業の思想を味わおうと思います。
 第14章 「一念に八十億劫の重罪を滅す」と信じること。念仏は「転悪成善の益」(信巻)があるとされることを勘違いして、一念一念におかした罪が滅せられると考える誤りが批判されます。
 第15章 「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらく」と説くこと。「今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく」というのが浄土真宗であると批判されます。
 第16章 「はらをもたて、あしざまなることをもおか」すたび「かならず回心すべし」と説くこと。「本願をたのみまいらする」回心は「ただひとたび」と批判されます。
 第17章 「辺地に往生をとぐるひと、つゐには地獄におつべし」とおどすこと。「信心かけたる行者」も「うたがひのつみ」を償えば報土に往生できると批判されます。
 第18章 お寺にお布施する額の多少に応じて「大小仏になるべし」とおどすこと。「一紙半銭」も入れなくても「信心ふかくば」往生できると批判されます。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

第13章本文(抄) [『歎異抄』を聞く(その101)]

       第10回―ひとを千人ころしてんや(第13章)

(1)第13章本文(抄)

 故聖人のおほせには、卯毛(うもう)羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかとおほせのさふらひしあひだ、さんさふらふとまうしさふらひしかば、さらばいはんこと、たがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状(りょうじょう)まうしてさふらひしかば、たとへばひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしとき、おほせにはさふらへども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼへずさふらふと、まうしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことを、たがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのさふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて願の不思議にてたすけたまふといふことを、しらざることをおほせのさふらひしなり。

 (現代語訳) 故聖人は「ウサギの毛や羊の毛の先の塵ほどの罪も、宿業によらないことはないと知るべきだ」と言われたことでした。またある時、「あなた(唯円房)は私の言うことを信じますか」と言われますので、「もちろんです」と申しましたら、「では、私の言うことに従いますか」と重ねて言われます。「謹んで承知いたしました」と答えましたら、「では、人を千人殺してみなさい、そうすれば必ず往生できます」と言われますので、「仰せではありますが、私の器量では一人も殺せるとは思えません」と答えました。すると「ではどうして私の言うことに従うなどと言ったのですか。これで分かるでしょう、何事も心のままにできるならば、往生のために千人殺せと言われたら、殺すこともあるでしょう。しかし、一人でも殺せる業縁がないから殺さないのです。自分の心がよいから殺さないのではありません。また逆に、殺すまいと思っても、百人千人殺してしまうこともあるのです」とおっしゃいました。これは、われわれは心がよいことがよいと思い、心が悪いことを悪いと思って、本願不思議によりたすけられていることを知らないのだ、ということを言われているのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

みなもてそらごと、たわごと [『歎異抄』を聞く(その100)]

(13)みなもてそらごと、たわごと

 無我とは「われを捨てよ」という教えではありません。そもそも、われを捨てるなどということはどういうことか理解できません。われを捨てよと言われる以上、われを捨てるのはわれ以外ではありませんが、われがわれを捨てるとはどういうことでしょう。このように言うことで何か意味のあることが言われているでしょうか。釈迦はこんな無意味なことを言っているのではありません。では何を言っているのか。「われはわれにとらわれている、そこからあらゆる苦しみが生じる」と言っているだけです。
 それに気づくだけでは何にもならないじゃないか、その上で、われへのとらわれをなくしてはじめて苦しみがなくなるのだから、と言われるかもしれません。でも、繰り返しですが、われへのとらわれをなくすことはできません、ただわれにとらわれていることに気づくだけです。でも、それを身にしみて思い知ることが、たいへんな作用をもたらすのです。われへのとらわれにブレーキの作用が働くのです。われにとらわれながら、「あゝ、またわれにとらわれている」と気づくことで、ブレーキを踏むことになるのです。それでわれへのとらわれがなくなるわけではありませんが、でもそれによる苦しみは目に見えて緩和されます。
 はからいも同じです。生きることは取りも直さずさまざまなはからいをすることに他なりませんが、よろづのはからいは「みなもてそらごと、たわごと」であるという気づきがありますと、「あゝ、またそらごと、たわごとを」と思い知ることになり、はからいにブレーキが働くのです。しつこいようですが、それではからいがなくなるわけではありません。はからいがなくなるのはいのち終わるときです。でも、もうはからいにのめり込むことなく、これは「そらごと、たわごと」だと醒めた眼でみつめながら、はからうのです。
 なぜそんなことができるのかといいますと、そこに本願・念仏という「まこと」があるからです。そこに如来の「まこと」があるから、所詮「そらごと、たわごと」と思いながら、安心してはからうことができるのです。

               (第9回 完)

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

はからい [『歎異抄』を聞く(その99)]

(12)はからい

 前に引きあいに出しました後序のことばをもう一度参照したいと思います。「まことに如来の御恩といふことをばさたなくして、われもひとも、よしあしといふことをのみまうしあへり。聖人のおほせには、善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはしますとこそ、おほせはさふらひしか」。
 これでみますと、親鸞は「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと」と言っていますから、ただ本願・念仏についてだけではなく、「よろづのこと」について、われらの「はからい」は「みなもてそらごと、たわごと」だと言っていると思われます。ですから、普通の生活には「はからい」は不可欠だが、本願を信じ念仏をもうすことについてだけは「はからい」があってはならないというのではなく、何ごとについても「はからい」があってはならないとなります。
 さて、さて、これは容易ならざることです。よろづのことについて「はからい」がないというのはどういうことでしょう。
 まわり道のようですが、我執について考えてみましょう。釈迦は我執がすべての苦しみの因であることに気づきました。「これはわれである」、「これはわがものである」という思いにとらわれることから苦しみが生ずるのだと。さてそこから釈迦はどう説くのでしょう。仏教の一般的な解説書などを見ますと、「釈迦は苦しみの原因である我執を捨てよと教えられた」と書いてあることが多いのですが、釈迦はほんとうにそう説いたのでしょうか。もしそうでしたら、ぼくはもう釈迦についていけない。我執を捨てることなど金輪際できないからです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

無義をもて義とす [『歎異抄』を聞く(その98)]

(11)無義をもて義とす

 「無義をもて義とす」の無義とは「義なし」ですから、「義なきを義とす」ということになりますが、親鸞はこれを法然のことばとして、しばしば手紙のなかで紹介しています。たとえば、「如来の御ちかひなれば、他力には義なきを義とすと、聖人(法然)のおほせごとにてありき」(『末燈鈔』第2通)、「しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人の仰に候き」(同、第7通)、「また弥陀の本願を信じさふらひぬるうへには、義なきを義をすとこそ大師聖人のおほせにてさふらへ」(『親鸞聖人御消息集』第40通)など。
 親鸞にはこのことばが法然の教えのエッセンスとしてしっかりこころに焼き付けられたようです(法然はみずから書を残すことをほとんどしなかった人ですが、ここにも「義なきを義とす」の精神があらわれているのでしょう)。
 「義なきを義とす」という文には二つの「義」がありますが、前の義が「はからい」の意味であることは、親鸞自身、上にあげました『末燈鈔』第2通の引用文につづいて「義をいふことは、はからうことばなり。行者のはからひは自力なれば、義といふなり」と言っていることから明らかです。そして後の義は普通に「正しい」ということですから、「はからいのないことが正しい」という意味になります。本願を信じ名号を称えるには「はからい」があってはいけないというのです。
 「はからい」とは分別のことです。「これはよし、あれはわるし」という分別。言うまでもありませんが、ぼくらは朝から晩まで「はからい」をしています。車の運転を考えてみれば、一瞬でも「はからい」を忘れてしまいますとおおごとになります。このように、ぼくらの生活は「はからい」で満たされていると言わなければなりませんが、とすると「義なきを義とす」とはどういうことか。ぼくらの普通の生活には「はからい」が欠かせないが、ただ本願を信じ念仏をもうすことについてだけは「はからい」があってはいけない、と言っているのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
前の10件 | -