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本願と釈迦 [『浄土和算』を読む(その158)]

(5)本願と釈迦

 「南無阿弥陀仏」が人間の姿をまとうのは必然です。「帰っておいで」の呼びかけがそれだけで宙を漂うことはできず、誰かの口から発せられるしかないからです。それが第17願、諸仏称名の願の意味するところであると繰り返し述べてきました。さてこの和讃のように、釈迦仏は「南無阿弥陀仏」が人間の姿をまとってこの五濁の世に現れたのであるとしますと、釈迦も無量の諸仏の一人ということになります。釈迦が「興出したまふゆへはただ弥陀の本願海をとかんとなり」であるとしても、それは釈迦に限られるわけではなく、諸仏はみなそうであるということです。
 これには当然反論があるでしょう。そもそも仏教は釈迦が説いた教えであり、その教えというのが弥陀の本願を説くことであるとしても、釈迦が弥陀の本願を明らかにしてくれたお蔭でわれらは本願に遇うことができるのだから、釈迦を諸仏の一人としてその中に埋もれさせるのはおかしいと。もし釈迦が現れることがなかったら、われらは本願に遇うことができなかったということを考えれば、そのご恩は弥陀のご恩に勝るとも劣らないものがあるのではないか。釈迦はやはりたんなる諸仏の一人ではなく、特別な存在として位置づける必要があると。さてどう考えるべきでしょう。
 永遠の真理(本願)と釈迦の関係は、唯一絶対の神とイエスの関係と似ています。回り道になるかもしれませんが、この点を少し考えてみたいと思います。
 キリスト教の教えでは、神はわれらから隔絶した絶対的な存在で、この世界にその姿を現わすことはありえませんが(だから偶像崇拝が禁止されるのですが)、ただ一回だけ現れたことがあります。それがイエスで、神がイエスに受肉したのです。そしてイエスは人類の罪を一身に背負って十字架にかけられたとされます。ここに神の愛が集中的に現われていると信じるのがキリスト教ですが、こんなふうにイエスを通して神が愛のメッセージを送ったとしますと、そしてそのメッセージにより人は救われるとしますと、ここにひとつの深刻な疑問が生じます、イエス以前の人たちはどうなるのかと。

タグ:親鸞を読む
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