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タターガタ [『歎異抄』を聞く(その70)]

(7)タターガタ

 前にも述べましたが、如来ということばにそのことが示されています。「如(サンスクリットでタター)」より「到来した(アーガタ)」ということで「如来(タターガタ)」というのです。如というのは真如、すなわち真理そのものですから、如来とは真理が向こうからやってきてこちらに到来しているということを意味します。如来とは何か実体的なものではなく、いわば宇宙の真理そのものであり、しかもそれがどこか遠くにあるのではなく、いまここに到来しているのです。真理はわれらがつかみ取るのではなく、向こうから到来するのであるということ、これを如来ということばが教えてくれています。
 一神教の神はこの世界の外にいますが(そうでなければ、この世界を創造することはできません)、阿弥陀如来はこの世界の外にいるのではありませんし、かといってこの世界の内にいるのでもない。この世界そのものと言うしかありません。ぼくらはこの世界の中にいますが、あるときこの世界そのものがぼくらに到来していることに気づく、これが「弥陀の御もよほし」にあづかるということです。世界そのものが到来するといいますのは、「宇宙そのものの声」が聞こえるということ、あるいは「いのちそのものの声」が聞こえてくるということに他なりません。
 「宇宙そのものの声」とか「いのちそのものの声」と言っても、何も神秘的なことではありません、目の前にいる「よきひとのおほせ」をこうむるだけです。ただそれが「よきひと」自身からきているというよりも、「よきひと」を通してずっと向こうからきていると感じるのです。「よきひと」自身も、それが自分の口から出たものでありながら、どこかからやってきたもののように感じる。曽我量深氏が講話を終え、控室に戻ってきて、「自分でしゃべっていながら、自分のことばに感じ入った」と言われたことがあるそうですが、これは自慢でも自己陶酔でもなく、自分のことばでありながら、もはや自分のことばではない、いわば宇宙のことばを感じたということでしょう。

タグ:親鸞を読む
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