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有無の邪見 [はじめての『高僧和讃』(その3)]

(3)有無の邪見

 『般若経』と言いますのは、般若すなわち「空という智慧」について教える経典類の総称で、『大般若波羅蜜多経』(600巻という途方もない分量です)に集大成されていますが、なかでも『魔訶般若波羅蜜経』がその中心です(先に名前がでました『大智度論』はその注釈書です)。日本人にもっとも親しまれている『般若波羅蜜多心経』(略して『般若心経』)は膨大な『般若経』のエッセンスを短く要約したものと言えますが、さらにそのなかの「色即是空、空即是色(色すなわちこれ空、空すなわちこれ色)」の一句にすべてが凝縮されています。
 さてしかし、空とはいったい何か。次の和讃はそれをこのように詠います。

 「南天竺に比丘あらん 龍樹菩薩となづくべし 有無の邪見を破すべしと 世尊はかねてときたまふ」(第2首)。
 「南インドに僧ありて、龍樹菩薩と名のりでて、有見・無見を論破すと、釈迦はもとより予言せり」。

 紀元前5世紀の釈迦が紀元後2世紀の龍樹について予言するなどということはありえないと思いますが、『楞伽経』という経典にそう書いてあるそうです。さてここで「有無の邪見を破す」と言うのはどういうことか。先ほどの「色即是空(一切は空である)」がとりもなおさず「一切は有でもなく、無でもない」ということですが、しかし、「有でもなく無でもない」とはまさしく空をつかむような感じで、途方に暮れてしまいます。
 浄土真宗では、空だの有無の見だのといった議論は聖道門のことだから知らなくていいということでしょうか、あっさりパスされてしまうのが通例です。親鸞もことばを出すだけで、それについての解説は一切してくれません。たしかに浄土の教えでは、本願を信じて念仏することが大事であり、空などという難しいことは分からなくても一向にかまわないのでしょう。しかし、とぼくは思うのです、それでは聖道門と浄土門はいつまでも平行線をたどり、交差することはないではないか。それで同じ仏教と言えるのだろうか、と。

タグ:親鸞を読む
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