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実現したからこそ願う [はじめての『高僧和讃』(その34)]

(17)実現したからこそ願う

 実現した時点でもう願わなくなるような願いは、ただそれだけのものにすぎません。ほんとうに願うに値するものは、それが実現してからも、いや、実現したからこそますます願うようになるものです。それを思うとき、いつも頭にうかぶのは道元です。彼は、「もう悟りの境地に至ったから坐禅をする必要はない」というような坐禅はほんものではない、坐禅は悟りの「ためにする」のではないと言います(これを修証一等と言います)。同じように、ほんものの願いは、それが実現されたらもう願わなくなるようなものではなく、実現されたからこそますます願うものです。
 「若不生者、不取正覚(もし生まれずば正覚をとらじ、われ人ともに救われん)」という法蔵の願いは十劫のむかしに成就したとされます。成就したとは実現したということですが、成就したのだからもう願われなくなったのでしょうか。法蔵の願いはもう意味がなくなったということでしょうか。滅相もありません。成就したからこそその願いはますます光り輝くようになるのです。世の中平和になったら、ますます平和を願わなければならないように、生きとし生けるものがみな救われたから、ますます救いを願わなければなりません。
 天親の「世尊、われ一心に尽十法無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」も同じです。
 天親は、尽十法無碍光如来に帰命したそのとき、もう安楽国に生まれたのです。もう往生の願いは実現されたのですが、だからこそますます往生を願うのです。「往生できたのに、その上どうしてまた往生を願うのだ、それは屋上屋を架すというものだ」と、この言い回しに理不尽を感じるのは、往生というものをここからどこか別のところへ行くというイメージで考えるからです。名古屋から東京へ行くように、「この世界」から「かの世界」に移動するというイメージ。そう考えますと、もう東京に着いたのに、その上さらに東京に行くことを願うというのはおかしいじゃないかとなります。しかし往生とはそういうものではありません。

タグ:親鸞を読む
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