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帰命のときが往生のとき [はじめての『高僧和讃』(その36)]

(19)帰命のときが往生のとき

 帰命には勅命が先立っているのです。「はい、ただいま」という前に「帰っておいで」の声が届いているのです。としますと、「はい、ただいま」と帰命するときには、もう往生できているということではないでしょうか。
 帰命の時が往生のときということには、まだすっきりしない思いが残るかもしれません。それだけ「臨終の往生」という思い込みがしっかり根を張っているということです。しかし何度も引き合いに出しますが、「信心のさだまるとき往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)という親鸞のことばは、その思い込みを痛撃するものです。また「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」(『歎異抄』第1章)もまったく同じ趣旨です。ここで「摂取不捨」といわれるのは弥陀の光明に包まれることですが、それは取りも直さず往生することに他ならず、信心・念仏のときが往生のときであると述べているのです。
 ことは正定聚ということばの理解に関わります。
 正定聚とは「かならず仏となることにさだまった身」ということですが、この「仏となる」を「往生する」と等値してしまいますと、「かならず往生することがさだまった身」となり、その結果、信心のとき正定聚となり、臨終に往生=成仏するということになります。この根深い思い込みの元は『観無量寿経』にあります。その九品往生を説くところで「臨終の来迎」がクローズアップされ、この強烈なイメージが、往生はいのち終わってからであり、そして往生することはそのまま成仏することだという観念を植えつけてしまったものと思われます。
 しかし曽我量深氏は「往生は成仏にあらず」といわれます。そして成仏は来生であっても、往生は今生、信心をえたときであるとされるのです。これをぼく流に解釈しますと、往生とは成仏へ向かっての旅路であり、信心のときその旅路がはじまり、成仏で終わりを迎えるということです。量深氏が「浄土は西岸にあれども、その門は東岸にあり」と言われるのはそういうことに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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