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煩悩・菩提体無二 [はじめての『高僧和讃』(その62)]

(5)煩悩・菩提体無二

 煩悩・菩提体無二とは煩悩即菩提と同じで、これは生死即涅槃とともに大乗仏教のエッセンスと言えます。
 たとえば『大集経(だいじっきょう)』(曇鸞がこれを注釈しようとして不老長生の道術をもとめた経典です)には「つねに生死即涅槃を行じて、諸欲のなかにおいて実に染なし」とあります。これは、生死のなかでさまざまな欲望をもちながら、それに染まることのない境地をあらわしています。苦楽の転変やまないこの生死のなかに平安の境地・ニルヴァーナがあるのであり、生死を離れてどこか遠くに涅槃があるのではないということです。
 煩悩即菩提や生死即涅槃。これほど強いインパクトを与えることばはないと思えると同時に、これほど矛盾した言い回しはないとも思います。煩悩があるということは、日々それに苦しめられ、したがって救われていないということなのに、そのままで菩提、つまり煩悩から解放されており、もう救われているというのですから、矛盾ここに極まれりと言わなければなりません。
 ここでことばというものについて少し考えておきたいと思います。
 ことばとは何かと問われたら、有用な情報を互いに伝達しあうために人間が生みだした便利なツールというように答えるのが一般的でしょう。このツールをもったおかげで人間は万物の霊長と言われるまでになったと。たしかにこの答えはことばのもつ威力をうまくとらえていますが、しかしこれではことばのはたらきをあまりに狭く限定することにならないでしょうか。いまの関心に沿って言いますと、これでは「ことばによって救われる」という大事なはたらきを説明できない。
 ぼくらはことばによって救われるというのは紛れもない事実です。たったひと言で救われるのです。

タグ:親鸞を読む
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