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仏法不思議 [はじめての『高僧和讃』(その64)]

(7)仏法不思議

 煩悩即菩提という不思議なことばについて考えているところです。これはどう考えても矛盾でしかないのに、ぼくらの胸にしみわたるのはなぜかということです。誰かがこれは真理であると言ったら、「そんな矛盾したことばが真理であるはずがない」と答えざるをえません。ところが「おまえは煩悩に苦しんでいるが、そのままでもう菩提にあるのだ」ということばがどこか遠いところから聞こえてくると感じたとき、それがぼくらを救うことばとなるのです。
 何とも不思議というしかありませんが、それを次の和讃はこう詠います。

 「いつつの不思議をとくなかに 仏法不思議にしくぞなき 仏法不思議といふことは 弥陀の弘誓(ぐぜい)になづけたり」(第33首)。
 「五つの不思議あるなかで、仏法不思議にしくぞなし。弥陀の弘誓のことをこそ、仏法不思議となづけたり」。

 ここで「五つの不思議」といいますのは、『論註』に「諸経にすべてのたまはく、五種の不可思議あり。一には衆生多少不可思議、二には業力不可思議、三には竜力不可思議、四には禅定力不可思議、五には仏法力不可思議なり」とあります。そして曇鸞は、浄土の素晴らしさは、ひとつには法蔵菩薩の業力不可思議により、もうひとつは阿弥陀仏の仏法力不可思議によると述べているのですが、親鸞はそれを受けて、五つの不可思議のなかで弥陀の本願力がもっとも不可思議であると詠うのです。
 本願力のどこが不可思議かと言いますと、本願力により煩悩のまま菩提に入ることができるということです。救われるはずのない凡夫がそのままで救われるということです。どこか遠いところから「おまえは煩悩に苦しんでいるが、そのままでもう菩提にあるのだ」ということばが聞こえてきて、それがぼくらを救うことばとなるということ、これほど不可思議なことがあるだろうかと言うのです。

タグ:親鸞を読む
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