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女人往生か女人成仏か [はじめての『高僧和讃』(その119)]

(6)女人往生か女人成仏か

 第18願に「一切の衆生」とあっても、そこには女人は含まれないとする頑なな差別意識があることを考慮して、あえて女人は男子に姿を変えるのだと言っていると思われます。
 さてここでひとつの疑問が浮かび上がります。女人が男子に変成するのは往生のときか、成仏のときかということです。もし往生のときだとしますと、往生は「いのち終わってのち」にならざるをえません。しかし成仏のときですと、成仏は「いのち終わってのち」であるとしても、往生はそれより前にはじまっても一向にさしつかえありません。つまり、男子も女人も本願に遇えたときに往生し、そして「いのち終わってのち」に、女人は男子に変成して成仏するということです。
 女人往生か女人成仏か。どっちでも同じだ、と考えるのが大勢ではないでしょうか。つまり往生がすなわち成仏であるという考えが一般的ということです。そして往生すなわち成仏のときは「いのち終わってのち」であると。しかし、道綽のところで詳しく見ましたように、この「常識」は『観経』から『大経』を読むことから生まれたと思われます。『観経』の九品往生を下敷きにして、『大経』の本願を読む。そのはじめが道綽ですが、善導もそれを継承します。
 『観念法門』で「摂生増上縁」を説くにあたり、善導は第十八願を「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚をとらじ」と言い換えた上で、こう言います、「これすなはちこれ往生を願ずる行人、いのち終わらんと欲するとき、願力摂して往生をえしむ、ゆゑに摂生増上縁となづく」と。ここにはっきり「いのち終わらんと欲するとき」とあり、臨終が往生のときであることが明記されています。
 かくして女人は「いのち終わってのち」に男子変成して往生をし、そして成仏するという浄土教の常識が確立することになります。

タグ:親鸞を読む
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