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無生の生 [はじめての『高僧和讃』(そお120)]

(7)無生の生

 さてしかしわが親鸞はこうした世の常識を覆したのでした。往生は臨終を待つことなし、本願に遇えたそのとき(信心をえたそのとき)が往生のときであると。
 往生ということばそのものが「ここ」とは別の「どこか」へ「往く」ことを含意し、しかもそこに「生」という字がつきますから、別の場所に新たに生まれるというイメージを喚起します。そしてそこから往生は当然「いのち終わるとき」のことという思い込みが生まれてきます。そうした思い込みを打ち破ろうと努力したのが曇鸞で、彼の「無生の生」ということばは往生を実体的に捉えることの誤りを指摘するものです。わが親鸞は道綽・善導以来、浄土教の常識として定着してしまったかに見える「いのち終わったのちに別のところに生まれる」という往生観を曇鸞の「無生の生」に戻そうとしたと言えます。さてしかし「無生の生」とはどういうことか。
 「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることに気づくということです。
 「わたしのいのち」が消えてしまって、何か別のものになるのではありません。「わたしのいのち」はこれまで通り「わたしのいのち」のままです。「いかり、はらだち、そねみねたむこころ」は何の変化もありません。ところがその「わたしのいのち」が同時に「ほとけのいのち」であることに気づくのです。表では「わたしのいのち」ですが、その裏は「ほとけのいのち」であるということ、あるいは、「わたしのいのち」はそのまま「ほとけのいのち」に包みこまれていると言えばいいでしょうか、とにかく「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」が二にして一であるということ、これに気づく。これが無生の生としての往生であるとしますと、それは「いのち終わってのち」でないのは言うまでもありません。
 では「いのち終わってのち」はどうなるのか。死んでからのことは誰にも分かりませんが、おそらくは「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」そのものになるのでしょう。そして「ほとけのいのち」においてはもう女人も男子もありません。成仏するにあたり女人が男子に変成するというのは、仏には男も女もないということに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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