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一念無疑なるをこそ [はじめての『高僧和讃』(その155)]

(5)一念無疑なるをこそ

 次の和讃です。

 「真宗念仏ききえつつ 一念無疑なるをこそ 希有最勝人とほめ 正念をうとはさだめたれ」(第80首)。
 「南無阿弥陀仏きこえては、疑うこころなきひとを、希有最勝のひととほめ、信をえたりとさだめたり」。

 信心とは、本願の気づきを妨げている遮蔽物が取り去られることであり、その遮蔽物とは「わたし」に他ならないと述べてきましたが、ここではそれが「疑い」であると詠われています。「疑い」という遮蔽物が取り去られることが正念、すなわち真の信心であると。そう言われてみますと、なるほど「わたし」とは「疑い」に他ならないと頷かされます。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」は「われ疑う、ゆえにわれあり」ということです。
 「わたし」がいるということはそこに「疑い」があるということであり、「疑い」があればそこに「わたし」がいるということ。
 「わたし」とは「疑い」に他ならないということは、「わたし」が「疑い」を手放すことはありえないということです。どれほど疑わないようにしようとしても、そう思っているのは「わたし」ですから、疑いはちゃんとスタンバイしています。いつ出番があってもいいように袖に控えているのです。そうしますと「一念無疑なる」とはどういうことでしょう。それは「わたし」が溶けるということです。
 先ほど経典に書かれている本願はよそよそしい顔つきをしているのに対して、それが声として直に届いてはじめて本願としてのはたらきをすると言いましたが、声として直に届くとは、「わたし」が溶けて本願の声がすっと入ってきたということで、そのときはもはや疑いはありません。経典に書かれた本願は「わたし」の外にあり、疑いの眼で見られていますが、声として直に届いたときにはすでに内に入り込み、疑いがおこる余地がもうなくなっているのです。
 気がついたときにはもうすでに内に届いている、これが「一念無疑」ということです。

タグ:親鸞を読む
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