So-net無料ブログ作成

もういちどボランティア [はじめての『高僧和讃』(その187)]

(15)もういちどボランティア

 それを考えるために、もういちどボランティア活動に戻り、化土の生き方としてのボランティアと報土の生き方としてのボランティアを較べてみましょう。
 化土の生き方の場合、「ほとけのいのち」に入るために、慈悲行としてボランティアをしようとします。ですから、その慈悲行は苦しんでいる人、悲しんでいる人のためになされるのですが、でも実際のところは自分が「ほとけのいのち」に入るためです。「みんなのため」であるようで、実は「自分のため」であるということ、ここにこの慈悲行の本質があります。欧米の大資産家がしばしば莫大なお金を惜しげもなく寄付し、すばらしい慈悲行として称賛されますが、あれもおそらくは天国に行くためでしょう。自分が天国に入るための慈悲行です。
 では報土の生き方としてのボランティアはどうか。
 もうすでに「ほとけのいのち」に入っていると気づいているのですから、「他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに」(『歎異抄』第1章)です。ここにはボランティアを「しなければならない」というこころの動きはありません。もう何かを「しなければならない」も、何かを「してはならない」もないところにいるのです。ではどうしてボランティアをするのか。それは「そうせざるをえなくなったから」に違いありません。そうすべきも、そうすべきでないもなく、身体がそのように動いてしまうということ。
 何か見えない力に促されているように感じるのでしょう。自分がボランティアをしようと思ったのは間違いありません。でもそのように思ったこと自体が何か見えない力によると感じているのです。これが親鸞の言う宿業の感覚です。何か見えない力で「ほとけのいのち」に入ってしまっていたように、何か見えない力でボランティアをしてしまっていた。これが報土の生き方としてのボランティアです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。