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真理はすでに語られている [正信偈と現代(その39)]

(3)真理はすでに語られている

 これはしかし普通の真理観ではありません。とりわけ学問の世界においては、真理は日々更新されていくもので、「わたしがこの真理をはじめて見いだした」ということに価値があります。「これはすでに言われていることで、わたしはそれを確認しただけです」というのでは学問としては何の意味もありません。このように学問においては真理は新しいからこそ値打ちがあります。ところが釈迦にとって(一般に宗教にとって)真理は古いからこそ値打ちがあるのです。
 「永遠の真理」といわれるのはそういうことです。
 さてしかし、そうだとしますと、釈迦が説いたとされる「無我」とか「縁起」(このようにまとまったかたちに整理されたのは後のことでしょうが、その元となるものが釈迦によって説かれたのは言うまでもありません)といった真理はどうなるのでしょう。このような真理は釈迦がはじめて語ったのであり、だからこそそれを仏教と呼ぶのです。もしこれらが釈迦より前にすでに語られていたとしますと、仏教の独創性はないことになります。仏教は紛れもなく釈迦が説いたものであり、と同時に、それはもうとうのむかしに語られていた、これをどう理解すればいいか。
 ここで「真理のことば」と「真理を伝えることば」の区別を持ち出したいと思います。
 日常的につかわれていることばは何かを伝えるためにあり(コミュニケーションの手段)、伝わればその時点でもうお役御免です。「明日の会合に出席します」ということばは、それが相手に伝わればそれで用済みです。真理についても、それを伝えることば、例えば「二つの物体は、その質量の積に比例し、その距離に反比例する力で引きあっている」という万有引力の法則は、それが相手にきちんと伝われば、それで役割を終えたと言えます。そのまま消えてしまうと困るからどこかに記録しておくとしても、それもまた真理を伝えるためであることには違いありません。
 これが「真理を伝えることば」です。

タグ:親鸞を読む
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