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本文5 [『唯信鈔文意』を読む(その46)]

              第4回

(1)本文5

 「但有称名皆得往 観音勢至自来迎(ただ名を称するのみありて、皆往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎えたまふ)」に対する註釈の第3段目です。

 来迎といふは、来は浄土へきたらしむといふ。これすなわち若不生者(にゃくふしょうしゃ)のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり。すなわち他力をあらはす御ことなり。また来はかへるといふ。かへるといふは、願海にいりぬるによりて、かならず大涅槃にいたるを、法性(ほっしょう)のみやこへかへるとまふすなり。法性のみやこといふは、法身(ほっしん)とまふす如来のさとりを自然にひらくときを、みやこへかへるといふなり。これを真実実相を証すともまふす。無為法身ともいふ。滅度にいたるともいふ。法性の常楽を証すともまふすなり。このさとりをうれば、すなわち大慈大悲きわまりて、生死海にかへりいりて普賢(ふげん)の徳に帰せしむとまふす。この利益におもむくを来といふ。これを法性のみやこへかへるとまふすなり。

 (現代語訳) 「来迎」の「来」は、浄土へ来たらしめるということです。これは「もし生まれずば」という本願の誓いを表すことばです。穢土を捨てて真実の浄土へ来たらしめるということです。つまり他力ということを表しています。また「来」は、帰るということです。帰るといいますのは、本願の海に入れていただき、必ず大いなる悟りにいたるのですから、法性のみやこへ帰ると言うのです。法性のみやこといいますのは、法身という如来の悟りを自然にひらかせていただくのですから、これをみやこへ帰ると言うのです。真実の実相を証すとも言います。無為法身とも言います。滅度に至るとも言います。法性の常楽を証すとも言います。この悟りを得ますと、直ちに大慈悲心を起こし、この生死の世界に戻ってきて衆生を教化するという普賢の徳を発揮すると言います。このような利益にあずかることを「来」と言うのです。これを法性のみやこへ帰ると言うのです。


慙愧せしめられる [『唯信鈔文意』を読む(その45)]

(16)慙愧せしめられる

 阿闍世は、慙愧しなければならないと思って慙愧したのでしょうか。もうそうせざるを得なくて慙愧したのではないでしょうか。「ああ、とんでもないことをしてしまった」という思いは有無を言わせず胸の奥から込み上げてきたのです。『涅槃経』では、阿闍世の全身に「かさ」が吹き出て、それが彼を苦しめるのですが、これは慙愧というものは「おのづから」吹き出てくるものだということを象徴しています。
 慙愧は、「慙愧する」というかたちではなく、「慙愧せしめられる」というかたちしかありません。
 さてこのように慙愧と阿弥陀仏による救いは原因・結果の関係ではないとしますと、両者はどういう関係でしょう。慙愧のないところには阿弥陀仏はおわなさいということをどう理解すればいいのでしょう。南無と阿弥陀仏の関係と同じく、両者は「ひとつ」ということです。
 「慙愧せしめられる」ことと「阿弥陀仏に救われる」ことは「ひとつ」であるということ。つまり、慙愧せしめられたときには、もうすでに、阿弥陀仏に救われているということです。
 この不思議を善導は「機の深信」と「法の深信」の二種深信で説いてくれました、「機の深信」のあるところには、すでに「法の深信」があるのだと。「ああ、こんな自分は救われない」と悲しみの涙を流すときが、「そのままで救われている」と喜びの涙を流すときです。
 これが「行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転ず」ということばの意味です。

              (第3回 完)

慙愧すること [『唯信鈔文意』を読む(その44)]

(15)慙愧すること

 罪は罪として自覚し慙愧すれば罪でなくなるということばはこころに沁みますが、さてそれは先ほどの「行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転ず」ということとどう繋がるのか。罪を転ずるためには少なくとも慙愧することが必要だということにはならないでしょうか。何もしないのに「おのずから」悪が善に転ずるなどということがあるわけないではないか。
 前に(7)こう言いました、南無と阿弥陀仏は一体であり、南無のないところに阿弥陀仏はおわしませんと。しかし、とつけ加えました、それは、南無することが条件となって阿弥陀仏が寄りそってくださるということではないと。この微妙な関係を次のように言い換えることもできます、慙愧のないところに阿弥陀仏はおわしませんが、しかしそれは慙愧すれば阿弥陀仏が寄りそってくださるということではないと。
 慙愧がないところに阿弥陀仏はおわさないと聞きますと、ぼくらの頭は、そうか、では慙愧しなければならない、というように働きます。阿弥陀仏に救われるためには慙愧することが必要なのだと。あるいは慙愧することが条件となって、阿弥陀仏の救いが与えられると。
 これはもうぼくらの骨の髄まで沁みこんだ習性で、どんなことも「原因と結果の図式」で捉えようとするのです。慙愧することが原因となり、阿弥陀仏の救いが結果として生ずるのであり、したがって、阿弥陀仏の救いを得ようと思ったら、慙愧しなければならないというように。
 もし慙愧が、そうしようと思ってできることでしたら、この原因・結果の図式通りに進めればいいでしょうが、慙愧というもの、そんなふうにはなっていません。


また自はおのづからといふ [『唯信鈔文意』を読む(その43)]

(14)また自はおのづからといふ

 さて親鸞は「観音勢至自来迎」の「自」について、「みづから」の他に「おのづから」の意味があるとして、「おのづから」とは「自然(じねん)」であり、「自然」とは「しからしむ」こと、そして「しからしむ」とは、「行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転ず」ことだと解説してくれます。
 南無阿弥陀仏に遇ったとき、そうしようと思わなくても、自然に悪が転じて善となるというのです。観音・勢至が寄りそってくださるというのはそういうことだと。ここにもぼくらの常識と反りのあわないものがあります。どうして何もしないのに悪が善に転ずるのだとこころのどこかが呟くのです。
 頭に思い浮かぶのは阿闍世(あじゃせ)の逆悪です。何の罪もない父王を殺した阿闍世の全身にできもの(かさ)が出て、膿が流れ、悪臭が漂うようになります。母・韋提希はいろいろな薬を試しますが効き目がなく、阿闍世は「これは心から生じているのだから、誰も治すことはできない」と嘆きます。「とんでもないことをしてしまった」という悔いの思いが「かさ」として吹き出ているのだと。
 大臣たちが「悔いることはありません、世の中には父王殺しなどザラにあります」と慰めるのですが、ひとり耆婆(ぎば)という医者だけは「よきかなよきかな、王つみをなすといへども、心に重悔(じゅうけ)を生じてしかも慙愧(ざんき)をいだけり」と褒めるのです。親鸞は『教行信証』において『涅槃経』からこの部分を長く引用しています。
 ここに浮かび上がるのは「慙愧のこころ」です。『経』は「慙は人にはづ、愧は天にはづ」と教えてくれます。そして罪はそれを罪と自覚し慙愧することで罪でなくなるという不思議を説きます。


もうすでに聞こえていた [『唯信鈔文意』を読む(その42)]

(13)もうすでに聞こえていた

 一方では主観的に存在するだけで十分と言いながら、他方で誰にとっても存在すると言うのは理不尽ではないかということです。
 改めて南無阿弥陀仏に遇う瞬間に立ち返りましょう。あるときふと南無阿弥陀仏の声が聞こえた。その声はそのとき聞こえたのに違いないのですが、不思議なことに「もうすでに聞こえていた」と感じます。「もうとっくの昔から聞こえていたのに、どういうわけか、これまではそれにまったく気づかず、いまはじめて気づいた」と思うのです。
 これまで何度も指摘してきましたように、「会う」は基本的に未来形であるのに対して、「遇う」は現在完了形です。「会う」のは「これから」ですが、「遇う」のは「もうすでに」だということ。「聞こえる」も「遇う」と同じで、「もうすでに聞こえていたことにいま気づく」のです。
 これが「みづから」ということです。南無阿弥陀仏はこちらから呼び寄せたのではなく、「みづから」近づいてくださっていたと感じるのです。これまでうかつにもそのことに気づかなかったが、いまようやく気づいたと。としますと、そう気づいたのはこのぼくであり、気づかない人には南無阿弥陀仏はどこにも存在しませんが、でも南無阿弥陀仏はいつでもどこでも誰にでもあると感じる。
 誰かが「きみがそう思うのは勝手だが、ぼくには何のことかさっぱり分からないよ」と言うとしますと、「残念ですが、この声はどういうわけか、ある人には聞こえ、ある人には聞こえないという具合になっているようです。でも聞こえるときは、だれにでも聞こえると感じるのです」と答える他ありません。


主観的に存在するだけで十分 [『唯信鈔文意』を読む(その41)]

(12)主観的に存在するだけで十分

 こうすれば聞こえますと言うことができて、はじめてその声は客観的に存在すると言えますが、残念ながら「こうすれば」が言えない。ですから「そんな声は存在するという資格はない」と言われたら、「その通りです」と応えるしかありません。「でも」とつけ加えるでしょうが。「でも、ぼくにはその声が聞こえ、それに救われたのですから、もうそれで十分です」と。
 どうやら、客観的に存在することが必要なものと、主観的に存在するだけで十分なものの二種類があるようです。
 南無阿弥陀仏は後者の典型ですが、前に検討しました死者の存在も後者の例ではないでしょうか。ぼくの亡き母はぼくにとってまごうかたなく存在します。こころの中とか頭の中にではありません、どこと特定することはできないとしても、ぼくの外にちゃんと存在します。
 でもそれはぼくにとって、あるいは母にゆかりのある人にとってであり、それ以外の人にはどこにも存在しないでしょう。その意味で亡き母は主観的に存在するだけですが、それで十分で、誰にとっても存在しなければならないとはまったく思いません。そんな存在もあるということです。
 さてしかし、まだ問題は終っていません。南無阿弥陀仏は主観的に存在するだけ、と言いながら、その一方で南無阿弥陀仏はいつでもどこでも存在するというのはどういうことかという問題です。
 親鸞はこう言っていました、南無阿弥陀仏はこちらから頼まなくても「みづから」近づいてくださると。こちらの意向などお構いなしですから、いつでもどこでも誰にでも近づいてくださるということです。しかし、どうしてそんなことが言えるのか、どんな資格でそう言えるのか。

客観的ということ [『唯信鈔文意』を読む(その40)]

(11)客観的ということ

 さて南無阿弥陀仏に戻りまして、前に阿弥陀仏はいつでもどこでも寄りそってくださるが、南無のないところでは、それに気づかず、阿弥陀仏はどこにも存在しないことになると言いました。気づく人には存在し、気づかない人には存在しないと。これはいま言いました客観性の原則に反するのではないでしょうか。
 「ある人には存在し、ある人には存在しない、以上おわり」では議論になりません。幽霊の場合も、「幽霊を見た」と言う人に「そうですか、ではあなたには幽霊は存在するのでしょう、でもわたしには存在しません」と応じる人はそれ以上の会話を拒否していると言わざるをえません。会話が成り立つということは、「存在するとは誰にとっても存在することだ」という前提があるということです。
 では南無阿弥陀仏について議論は成り立たないのでしょうか。『歎異抄』第2章のおわりに、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」という親鸞のことばが出てきますが、念仏をとるか、すてるかは、あなた方次第だというのは、これは議論すべきことではないと受け取ることもできます。
 文化センターで「南無阿弥陀仏というのは、弥陀の『帰っておいで』という呼びかけの声です」というように言いますと、「どうすればその声が聞こえるのでしょう」という質問が必ずと言っていいほど出ます。もっともな質問ですが、しかしこれには答えようがありません。
 どういうわけか、ある人には聞こえ、どういうわけか、ある人には聞こえない。ここには客観性がないのです。


幽霊は存在するか [『唯信鈔文意』を読む(その39)]

(10)幽霊は存在するか

 ぼくはこう言いました。キュブラー=ロスが勝れた精神科医であることに異論はないが、その彼女が「幽霊をまざまざと見た」と証言しても、それだけで幽霊が存在するということにはならない。そのためには誰でも幽霊を見ることができるという条件がなければならないが、あの本を読む限り、そういう条件が示されているとは思えないと。
 それに対してスピリチュアル系の彼はこう主張します、キュブラー=ロスが嘘をついていないとすれば(それはあなたも同意するだろう)、彼女が「幽霊を見た」と言っているのに、あなたはどういう資格でそれを否定できるのか、と。ある人が「わたしは幽霊を見た」と言っているのに、そんなことはないと否定するのは横暴ではないかと言うのです。
 ここには不幸なすれ違いがあると感じました。
 ぼくは彼女が何か尋常ならざる経験をしたことは同意します。そんなことはなかったとは決して言いません。でも、彼女が見たものが幽霊であるということについては同意できないのです。それに同意するためには、こうすれば誰でも幽霊を見ることができるという条件を示す必要があると言っているのです。
 ことは客観的かどうかに関わります。
 あるものが存在するためには、それをある人が確認するだけでなく、誰でも確認できるということが必要であり、それが客観的ということです。実際にみんなが確認する必要はありませんが、そうしようと思えば誰でも確認できるということが大事なのです。これは科学の原則ですが、ぼくらが日常的に議論するときにも踏まえなければならないことではないでしょうか。


「存在する」とは(つづき) [『唯信鈔文意』を読む(その38)]

(9)「存在する」とは(つづき)

 もし「存在する」というのは「存在することが知られている」ことだとしますと、知っている人には存在するが、知らない人には存在しないということになります。コロンブス以前のアメリカ大陸は、ヨーロッパ人には存在しなかったが、原住アメリカ人には存在していたということです。それを承認していいかどうか。
 一方、もし「存在する」というのは「知る、知らないに関係なく存在する」ことだとしますと、誰も知らなくても存在するものがあることになります。さて、誰一人知らないものを存在すると言うことができるかどうか。少なくとも一人がその存在を知ってはじめて存在すると言えるのではないでしょうか。
 以上のことを綜合して考えますと、あるものが「存在する」とは、少なくとも一人はその存在を知っていなければならないが、その人にしか知りえないのではなく、誰でも知りうるという条件が必要だ、となりそうです。アメリカ大陸をコロンブス以前のヨーロッパ人は知らなかったのですが、でも(コロンブスのようにすれば)知りえたわけですから、アメリカ大陸はヨーロッパ人にも存在していたと言わなければなりません。
 さてでは、突然ですが、幽霊は存在するかどうか。幽霊が存在するというためには、誰かが「幽霊はいる」と証言していること(これはそのへんにザラに転がっています)に加えて、誰でも幽霊の存在を知りうるという条件を示さなければなりません。
 この問題を巡って、スピリチュアル系の友人とかなり激しい論争になったことがあります。キュブラー=ロス(臨死体験を研究した精神科医)の『人生は廻る輪のように』という本の中に、彼女が幽霊をまざまざと見たという話が出てくるのですが、これが争いのもとでした。


「存在する」とは [『唯信鈔文意』を読む(その37)]

(8)「存在する」とは

 「南無」(たのむこころ)のないところに「阿弥陀仏」(救うこころ)はないというのは、「阿弥陀仏」はいつでもどこでも存在するが、「南無」のないところでは、それに気づかないということです。「阿弥陀仏」はたのまれなくても「みづから」寄りそってくださっているのです。ところが「南無」の思いがなければ、そのことに気づかず通り過ぎてしまう。ですから、その人には「阿弥陀仏」は存在しません。
 つい今しがた「阿弥陀仏」はいつでもどこでも存在すると言ったばかりなのに、ここで、気づく人には存在し、気づかない人には存在しないと言う。これにはきっと反発があるに違いありません。いつでもどこでも存在するなら、人によって存在したり、存在しなかったりなどということはないはずだと。
 あるものが「存在する」ということ、ここには謎が満ちています。
 よく出す例ですが、コロンブスがアメリカ大陸を発見するまでは、ヨーロッパの人たちにとってアメリカ大陸は存在しなかったか。
 答え・その1。存在しなかったに決まっているじゃないか。彼らにとってアメリカ大陸なんてどこにもなかった。だからこそコロンブスの発見は驚きだったのだ。
 答え・その2。いや、コロンブス以前からアメリカ大陸は存在していたのだが、それが知られていなかっただけだよ。コロンブスはアメリカ大陸を「発明」したのではなく「発見」しただけだ。
 「存在する」というのは「存在することが知られている」ということか、それとも「知る、知らないに関係なく存在する」ということか。