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いのちの海 [『唯信鈔文意』を読む(その107)]

(13)いのちの海

 遇ったことのない人にばったり遇って「あっ、この人だ」と思うのは、恋に落ちる(fall in love)ときの経験です。はじめて遇う人なのに「ああ、この人をずっと待っていたのだ」と思う。それを言い表すのに「前世の縁」というようなことばを使いますが、これは前世で一度遇っていたということでしょう。だからこそ、はじめて遇うのに「あっ、この人だ」と思うのです。
 法蔵に遇うのも同じです。まだ遇ったことのない法蔵にばったり遇って、「あっ、法蔵だ」と思うのは、実はもうすでに遇ったことがあるからです。どこで遇ったかと言いますと、「いのちの海」の中です。一如の海の中で一体だった。かくしてぼくのふるさとも法蔵のふるさとも同じ「いのちの海」であるということになります。
 そうしますと、法蔵の誓願もこの「いのちの海」から生まれてきたことになります。「みんなに安らかな生を与えたい」という願いは「いのちの海」の願いではないでしょうか。ぼくも「いのちの海」から生まれてきて、さまざまな願いを持っています。「大病をせずに穏やかな日々を送りたい」、「それほど長生きでなくていいが、もう少し生きたい」、「逝くときは安らかであってほしい」などなど。まったく自分のことしか考えていないじゃないかと、あわてて「妻も同じように幸せであってほしい」とつけ加え、さらには「世の人みな幸せに」などとおまけをつけるかもしれません。
 これがぼくの願いですが、法蔵の願いとは雲泥の差があります。ぼくの願いは「まずぼく自身の安らかな生を、しかるのちに世の人みなの幸せを」というもので、法蔵の願いは「みんなが安らかな生を得るまではわたしの安らかな生を望まない」ということですから、これはもう比べようもないと言わなければなりません。でも、しかし、but.どちらも「いのちの海」から生まれてきた。

38億歳 [『唯信鈔文意』を読む(その106)]

(12)38億歳

 この地球上にいのちが生まれたのが38億年前だそうです。海の中にふるえるようないのちが誕生した。それが38億年という思いも及ばない長い年月を経て、今日のいのちたちの姿をとっているわけです。ぼくもその一人です。はじめのいのちとぼくとをつなぐ糸がどこか一箇所でも切れていれば、ぼくはいまここに存在していません。とすれば、ぼくは紛れもなく38億歳ではないでしょうか。ぼくが母から生まれてからは68年ですが、それまでの38億年に比べれば無きに等しい。
 ぼくの耳の辺りでブーンと飛んでいる蚊もぼくと同じ38億歳です。その蚊を手でパチンと叩きますと、そこで蚊の38億年の歴史が閉じられることになります。それを思うとちょっとこころが痛みます。まあしかし、ぼくもいつなんどき38億年の歴史に幕を下ろすことになるか分からない年になりました。ぼくの38億年が終るのも、それはそれで悲しい。しかし、蚊の38億年が終っても、ぼくの38億年が終っても、いのちそのものは何ごともなかったかのように38億年の歴史を続けていきます。無数のいきものたちが38億歳のいのちを紡いでいるのですから。
 このように考えますと、ぼくのふるさとは38億年の「いのちの海」で、それは法蔵のふるさとである「一如」のことではないでしょうか。どうしてかといいますと、もしそうでなければ、ぼくが法蔵に遇うことはかなわないからです。改めて誰かに遇うということを考えてみましょう。これまで何度も言いましたように、遇うとは「思いがけず遇う」ということで、「そのつもりで会う」のとはまったく違います。さて、これまで遇ったことのない人と遇うということはどうして可能か。遇ったことのない人にばったり遇って、「あっ、この人だ」と思うというようなことがどうして起こるのでしょう。

この一如よりかたちをあらわして [『唯信鈔文意』を読む(その105)]

(11)この一如よりかたちをあらわして

 如来と群生は本質的にひとつであることを改めて感じさせてくれるのが「この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまふ」という一節です。
 「一如」と言いますのは「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへた」ところのことです。そこから法蔵比丘が「かたちをあらわし」、「すがたをしめして」、誓願を起こしたもうたと言うのです。としますと、法蔵の誓願は「こころもおよばれず、ことばもたへた」ところからやってきたということになります。「かたちもましまさ」なかったものが、法蔵の誓願として「かたちをあらわし」たと。
 一如(タター)から来た(アーガタ)ということで如来(タターガタ)といいます。如来は一如から現われ、本願を成就したのです。一方、われら群生もまたこの一如からかたちをあらわし、煩悩を成就しているのではないでしょうか。一如から如来が現われ、また群生も現われた。一如から本願が現われ、また煩悩も現われた。だからこそ、如来と群生の体はひとつであり、本願(涅槃)と煩悩の体もひとつだと。
 さてしかし、一如から如来が現われたのはいいとして、一如から群生が現われたというのはどういうことかと不審に思われることでしょう。
 そこで突然ですが、われら群生の年齢というものをどう考えたらいいかを考えてみたいと思います。かなり前のことになりますが、同じ職場の年若い同僚と、ぼくが担任した卒業生結婚することになり、その仲人を頼まれたことがあります。その結婚式の場で、仲人の挨拶としてはどんなものかと危ぶみながらも、新郎の年齢について「彼は28歳ですが、実は38億歳です」と紹介したことを思い出します。新郎をはじめ列席の皆さん、一瞬「えっ」という顔をしていました。

本文13 [『唯信鈔文意』を読む(その104)]

(10)本文13

 この心に誓願を信楽するがゆへに、この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまふ御かたちおば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。この如来を報身とまふす。誓願の業因にむくひたまへるゆへに報身如来とまふすなり。報とまふすは、たねにむくひたるなり。この報身より応化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに尽十方無碍光仏とまふすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、無明のやみをはらひ悪業にさえられず、このゆへに無碍光とまふすなり。無碍はさわりなしとまふす。しかれば阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧のかたちなりとしるべし。

 (現代語訳) この心に誓願を信じますから、信心はすなわち仏性です。仏性とはすなわち法性で、法性とはすなわち法身です。法身は色もありませんし、形もありません。ですから、心に思いうかべることもできず、ことばで言うこともできません。この一如から形をとって現れ、方便法身と呼ばれるお姿を示して、法蔵比丘と名のられ、思い及ぶこともできない大いなる誓願を立てられたそのお姿を世親菩薩は尽十方無碍光如来と名づけられました。この如来を報身と申します。誓願という業因が報われた姿なので報身の如来と言うのです。報と言いますのは、種に報いるということです。この報身からさらに応身、化身など無数の形を現して、あらゆる世界に無碍の智慧の光を放たれますので、尽十方無碍光仏とよばれ、形も色もなく、無明の闇を払い、どんな悪業にも邪魔されませんから、無碍光と言うのです。無碍とはさわりがないということです。ですから阿弥陀仏は光明です。光明とは智慧のことだとお心得ください。

仏とひとし [『唯信鈔文意』を読む(その103)]

(9)仏とひとし

 『歎異抄』第15章で唯円が言っていますように、「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくと、ならひさふらふ」のであって、われら凡夫と仏の境界線を消してしまうような言い方はもってのほか。それは禅であっても浄土ではない。
 確かに、本願に遇うことができたとしても、それで仏になるわけではありません、依然として煩悩具足の凡夫のままです。その意味では凡夫と仏の区別をしっかりつけなければなりませんが、でも、しかし、but、凡夫のままで「仏とひとし」と言うところに親鸞の真骨頂があると思うのです。本願に遇うことができたら、仏とおなじではないが、仏とひとしいのだと。
 かの土にしてかならず仏となれるとしますと、そのことを忘れさえしなければ、凡夫のままでもう仏であると言ってもいいではありませんか。
 おたまじゃくしはかならず蛙になるのですから、おたまじゃくしは蛙であると言ってもいい。AはかならずBとなるとしますと、AとBの見かけはどれほど違っていようと、体はひとつであるということです。そして、AはBとなるのですから、Aの本質はBであると言うこともできますし、BはAから出てきたのですから、Bの本質はAであると言うこともできます。凡夫の本質は仏であるとともに、仏の本質は凡夫であると。
 本願に遇えたことで、凡夫が仏になるのではありません、むしろ凡夫が凡夫となるのです。でも、凡夫は「われは凡夫である」とはっきり気づくことで、仏にひとしくなるのです。娑婆が浄土になるのではありません、娑婆が娑婆となるのです。娑婆も「ここは娑婆だ」とくっきり気づくことで、そこはもう浄土にひとしくなるのです。

群生と如来はひとつ [『唯信鈔文意』を読む(その102)]

(8)群生と如来はひとつ

 ただ、娑婆世界に如来がみちみちたまうという言い方には独特の難しさがあります。この娑婆に如来がみちみちていると言われますと、ぼくらはキョロキョロあたりを見回して、一体どこに如来がおわすか探そうとしますが、見えるのは群生ばかり、どこにも如来はおわしまさない。
 親鸞は「この如来、微塵世界にみちみちたまへり」にすぐ続いて、「すなわち一切群生海の心なり」と言います。外をキョロキョロしても見つからないはずで、ぼくらのこころの中に如来はおわすということでしょうか。
 しかし「こころの中にいる」というのは便利な言い方である反面、「どこにもいない」と言っているに等しい。こころが勝手に創りだしているだけというようにも受け取れるのです。しかし親鸞が如来は「一切群生海の心なり」と言うのはそういうことではないでしょう。群生のこころの中に如来がおわすのではなく、群生のこころが如来そのものだということに違いありません。
 煩悩と菩提が実は一体であるように、群生と如来も体はひとつだということ。
 ことは実に微妙ですから、一歩間違えば大変な妄言になってしまいかねませんが、「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなわち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆへに、この信心すなわち仏性なり」という一節を読むたびに、もう群生も如来もない融通無碍の世界が広がってくる気がします。ただ、「煩悩と菩提の体はひとつ」まではいいとして、「群生と如来の体もひとつ」と言いますと、すかさず「待った」がかかるような気がします。それは浄土の教えではないと。

煩悩の氷が解け、菩提の水となる [『唯信鈔文意』を読む(その101)]

(7)煩悩の氷が解け、菩提の水となる

 どんなに正義はこちらにあり悪いのは相手であるとしても、こちらに「こんなはずじゃない自分」に対する執着があるから、怒りが込み上げてきて諍いになるのではないでしょうか。もしそうした執着がなければ、相手がどれほど理不尽に罵っても、「あなたは何か勘違いしているのではないですか」と穏やかに対応することができ、この対応には相手も拍子抜けをして怒りのトーンも一挙に落ちると思うのです。諍いにならない。
 このように考えてきますと、どんなときも諍いの原因はこちらにもあるということになります。「こんなはずじゃない自分」に対する執着があるから喧嘩になる。そう気づかされてはじめて煩い悩むのです。自分の穢れに苦しむのです。これが煩悩であり、塵労です。
 さて、怒りながら、「あゝ、自分への執着が怒りの原因だ」と気づいたとき、もう怒りは収まっていないでしょうか。かっと燃え立った怒りが鎮火していないでしょうか。これが「煩悩の氷が解け、菩提の水となる」ということです。源信は「煩悩と菩提とは、体はこれ一なり」といい、氷と水のようなものだと言っていました。氷と水では見かけはまったく異なりますが、本質は同じH2Oです。
 同様に、煩悩と菩提も見かけは真逆ですが、本質は同じですから、煩悩が解ければ菩提となるのではないでしょうか。いや、こう言うべきかもしれません、煩悩はもうすでに菩提であるのに、これまではそれに気づいていなかっただけのことだと。
 こちらに煩悩の娑婆があり、あちらに涅槃の極楽があるのではなく、煩悩の中に涅槃がみちみちているということについて見てきました。としますと、こちらに群生の娑婆があり、あちらに如来の極楽があるのではなく、この娑婆世界に如来がみちみちたまうというのも同じことでしょう。

どうして怒りが [『唯信鈔文意』を読む(その100)]

(6)どうして怒りが

 ほんとうに一方だけが悪いのでは諍いにならないでしょうか、ちょっと思考実験をしてみましょう。
 自分にはまったく非がなく、相手が一方的に悪いと思われる場合。例えば、まったく身に覚えがないことで隣人から口汚く罵られたとしましょう。突然「ばかやろう」と言われたら、「ばかやろうとは何だ」と怒りが爆発するのが普通です。こうして激しい諍いに発展していくのですが、この場合、悪いのは向こうだけで、こちらに非はないのでしょうか。
 そう見えます。こちらには一点の非もありません。
 ここで立ち止まってみずからを省みましょう。どうして怒りが爆発したのか。身に覚えがないことで罵られたからには違いありませんが、相手はただ何か勘違いをしているだけかもしれないではありませんか。誰かから根拠のないうわさ話を聞いて、それを真に受けているだけなのかもしれない、そんなことが頭をかすめないでしょうか。
 でもそんなことを思うより先に腹立ちがやってきます、「なんだ、こいつは」と。この腹立ちをよくよく見ますと、「なんでオレが口汚く罵られなくちゃいけないのか」、「オレはお前なんぞに罵られる筋合いはない」という自尊心=コンプレックスがその底にあるのが分かります。ぼくらにはこのコンプレックス(優越感と劣等感は実は同じです)という厄介なヤツが居座っています。人によりその強さに違いがあるでしょうが(ぼくはかなり強いと感じます)、多かれ少なかれこれが腹の中にあり「ちくしょう」という怒りを引き起こしているのではないでしょうか。
 「オレはお前なんぞに」という思いは「オレがお前なんぞに罵られるのは何かの間違いだ」ということです。「こんなはずじゃない」と、ありもしない「ほんとうの自分」に執着しているのです。実際は「隣人に口汚く罵られている自分」がいるのに、どこかに「みんなから称讃されるはずの自分」がいると思う。

煩悩とは煩い、悩むこと [『唯信鈔文意』を読む(その99)]

(5)煩悩とは煩い、悩むこと

 煩悩とは、ただ欲を起こし、腹を立てることではありません。そのことを煩い、悩むことです。先回のところ(本文10)に「煩はみをわづらはす、悩はこころをなやます」とありましたが、それが煩悩です。塵労にも同じことが言えます。貪欲・瞋恚・愚痴を穢れ(塵)と感じ、それに苦しむ(労)ことです。
 ただ欲を起こし、腹を立てるだけなら、それだけのことにすぎませんが、それを煩い、悩むことではじめて煩悩となります。それを穢れと感じ、苦しむことではじめて塵労です。そして、ここが不思議なところですが、煩い悩み、穢れと感じ苦しむことで、それらはもう怒り、そねみ、ねたみではなくなってしまうのです。
 貪欲・瞋恚・愚痴が煩悩として姿を現し、塵労として現われたそのときに、それらはもう貪欲・瞋恚・愚痴でなくなってしまう。
 具体的な場面で考えてみましょう。少し前のことですが、山口県周南市のたった14人の山あいの小さな集落で、一人の男が、隣近所との些細な諍いが積もりに積もり、ついに5人もの人を手に掛けてしまいました。彼のこころに恐ろしい瞋恚の炎がメラメラと燃え上がり、もうなすすべもなくその奔流に身を任せてしまった。
 自分を突き動かしているのが激しい怒りであることは百も承知の上でしょうが、それは煩悩でも何でもありません。彼の中には腹立ち、ねたみ、そねみが渦巻いていますが、それはみな向こうに原因があり、腹が立つのは当然のことと思っているでしょう。ですから、ただひたすら怒るばかりで、煩い悩むこころは一片もありません。
 煩い悩むようになるのは腹立ちの原因がこちらにもあると気づかされるからです。悪いのは向こうばかりではない、こちらも悪い、と思う。ただ一方だけが悪いのでは諍いになりません、どちらも悪いからこそ口論にもなり、殴り合いにもなるのです。


煩悩と菩提 [『唯信鈔文意』を読む(その98)]

(4)煩悩と菩提

 もうひとつ同じ趣旨の文を『往生要集』からあげますと、「諸仏は貪(とん)と瞋(しん)とに依りて、道場(悟りをひらく場)に処したまふ。塵労(じんろう、煩悩のこと)は諸仏の種なり」(法句経)。これらの経文は、煩悩の中にこそ仏の道があるということを述べています。ぼくらは煩悩に生きるのは仏の道にそむくことだと考えますが、煩悩に生きること以外に仏の道はないというのです。
 当然、こんな疑問が起こります、「問ふ。煩悩・菩提、もし一体ならば、ただまさに意(こころ)に任せて惑業(煩悩の行い)を起こすべきや」と。源信はこう答えます、「かくの如き解を生(な)す、これを名づけて悪取空(空に囚われる)の者となす。…煩悩と菩提とは、体はこれ一なりといへども、時・用(ゆう、働き)異なるが故に染・不染不同なり。水と氷との如く、また種と菓(このみ)との如し。その体はこれ一なれども、時に随ひて用は異なるなり」と。
 体と用。便利なことばとしてよく使われますが、さてしかしどういうことか。源信の上げている「水と氷」は分かりやすい例です。どちらもH2Oで同じですが、方や液体で方や固体、その現れ方はまったく違います。これを煩悩と菩提(涅槃)に当てはめますと、どちらもその本質(体)は同じだが、その現れ方、働き方(用)はまったく違うということです。
 金子大栄氏はある人から「禅宗では厳しい修行をするということですが、真宗では修行をしないのでしょうか」と問われ、「禅では人里はなれた道場で修行をしますが、真宗では人中の生活の場が道場です。日々の生活が修行です」と答えられました。勤め人は会社が修行の道場であり、家庭の主婦は台所や居間が修行の道場だというのです。
 生活の場とは、煩悩の修羅場です。欲を起こし、腹を立てる、これがわれらの生活です。よく貪欲は餓鬼への、瞋恚は地獄への道のりだと脅されますが、先の経典には「塵労は諸仏の種なり」とあります。塵労の中にしか仏になる道はないというのです。