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本願は「いま」はじまる [『一念多念文意』を読む(その36)]

(6)本願は「いま」はじまる

 戻りましょう。「これから」往生するのだが、「もうすでに」往生は約束されているという事態を考えているのでした。それが正定聚という不思議な立ち位置です。「これから」天国か地獄に行くのだが、天国に行くか地獄に行くかは「もうすでに」定められているというカルヴァンの予定説は理不尽ではありません。十年後のぼくが生きているか死んでいるかは分からないが、それは因果の法則により「もうすでに」決まっているというのも理不尽ではありません。しかし、往生するのは「これから」だが、「もうすでに」往生が約束されているというのはどうでしょう。
 往生するかどうかは「もうすでに」決まっているというのでしたら、予定説と同じで、そこに理不尽さはありません。しかし往生することが「もうすでに」決まっているとなりますと、どうしてそんなことが言えるのか、「これから」のことはせいぜい推測することしかできず、前もって決まっているなどと言えないはずだと思います。「もうすでに」往生が約束されているという根拠はどこにあるのか。どこにもありそうにありません、経典にそう書いてあるということ以外は。ここに問題の核心があります。経典に書いてあるだけでは何の力にもなりません、それが自分の身の上に起こってはじめて意味をもってくる。
 往生の約束が「もうすでに」なされているから「これから」往生することができると言われても、これこれの公理からこれこれの定理が導かれると言われるようなもので、「それはそうかもしれませんが」という感じで、「わたしには縁のない話です」となってしまいます。わたしに縁ができるためには、「もうすでに」と「これから」の間で「ただいま」が始まらなければなりません。「ただいま」本願に遇うことが必要なのです。源左に「源左たすくる(源左、たすけるぞ)」の声が聞こえた、そのとき「昔の本願がいま始まる」(曽我量深)のです。「ただいま」本願に遇うことにより、「もうすでに」本願が成就していることがただの物語ではなくなり、「これから」往生できることが身に沁みて感じられるようになるのです。

因果の法則 [『一念多念文意』を読む(その35)]

(5)因果の法則

 カルヴァンの予定説は何とも恐ろしい思想と言わなければなりませんが、絶対神がこの世界を創造したという一神教の立場では、つきつめればこうならざるをえないのです。
 考えてみますと、別に神を持ち出さなくても、すべては因果の法則にしたがっているという立場(これはぼくらが普通にとっている立場です)をつきつめれば、「これから」世界がどのようになるかは「もうすでに」定まっているということになります。十年後のぼくがどうなっているか(生きているか死んでいるかを含め)は、「もうすでに」決まっています。ただそれが分からないだけ。明日の天気がどうなるかは「もうすでに」決まっています。ただぼくらはそれを過去のデータから帰納的に推測するしかなく確率的にしか分からないだけのことです。
 「これから」のことについて確実なことは何も言えないということと、「これから」のことは「もうすでに」決まっているということは矛盾しません。
 「これから」のことは因果の法則で隅々まで決まっていても、具体的にどのような因果関係がつながっていくかについては、過去の膨大なデータを調べることで推測するしかないからです。その推測の範囲は極めて限定されたものでしかありませんから、「これから」のことなど分かるはずがないと言わざるをえないのです。
 さらに言えば、すべては因果の法則にしたがっているというのも、ひとつの「立場」にすぎません、すべては神の摂理にしたがっているというのが一神教という「立場」にすぎないように。カントによりますと、すべては因果の法則にしたがっていると見ること自体は、過去の経験から帰納的に得たものではありません。逆に、すべては因果の法則にしたがっているという図式を当てはめることでわれらの経験は成り立っているのです。

カルヴァンの予定説 [『一念多念文意』を読む(その34)]

(4)カルヴァンの予定説

 しかしことはそう単純ではありません。「これから」と「もうすでに」の相克がなくなったわけではないのです。
 病気の例で言いますと、病気が治ってほしいと願ったそのときに、治ることが約束されるということになるでしょうが、世の中そんなにうまくいくものでしょうか。医者に「早く治ってほしいと思います」と訴えると、「治りますから安心してください」と言われる。医者としては何の根拠もなくそう言っているのではないでしょうが、しかし「絶対治る」と保証することはできないはずです。病気が治るのは「これから」のことですから、それについて確実なことを言うわけにはいきません。明日の降水確率は0パーセントですと言われても、土砂降りになる可能性を否定することはできません。
 しかも、医者や気象予報士が将来を「予想する」のと、弥陀が往生を「約束する」のとでは根本的に異なります。医者や気象予報士が予想するというのは、これまでのデータをもとにこれまではこうだったから「これから」こうなるだろうと推測するのですが、弥陀が約束するというのは「もうすでに」そうなっていると請合うことです。
 法蔵菩薩が、ひとりの例外もなくみなわが国に往生させたい、そうでなければ仏にならないと誓い、それが成就してめでたく阿弥陀仏となったのは十劫の昔です。このようにして十劫の昔に一切衆生の往生が約束されたのですから、われらが往生するのは「これから」でも、往生の約束は「もうすでに」なされているのです。
 カルヴァンの予定説が頭に浮かびます。彼が言うには、救われるか否か(天国に行けるかどうか)は、われらが生まれる前から「もうすでに」決まっているのです。ある者は救われ、ある者は救われない。それは神により前もって定められていますから、この世においてどれほど善行を積もうが、どれほど悪業の限りを尽くそうが、そんなことは神の予定に何の関係もありません。救われる者は救われ、救われない者は救われない。しかも自分がそのどちらに属しているかを知るすべがありません。

往生が約束される [『一念多念文意』を読む(その33)]

(3)往生が約束される

 先回、「願生彼国」のときが「即得往生」であることの不思議についてあれこれ思い巡らしました。「これから」往生することを願うのに、願ったそのとき「もうすでに」往生しているという不思議。普通はそんなばかなことはありません。病気が治ることを願ったそのときにもう病気が治っているなんてことがあるはずがありません。それは時間の秩序をひっくり返すことです。
 その理不尽さを取り除く鍵として登場するのが正定聚という概念です。往生したいと願ったそのとき実際に往生しているというのでは、その不可解さについていけませんが、往生したいと願ったそのとき「往生することが約束されている」ということになりますと、不可解さがかなりやわらぐのではないでしょうか。
 正定聚とは仏になることが約束されている仲間(聚)という意味です。後段に出てくる弥勒菩薩は、釈迦の次に仏となることが決まっていますから正定聚です。あるいは一生補処とも言いますが、それは、この生ではまだ仏ではないが、この生を終えたあとに仏の座につく(空処を補うということで補処といいます)ことが決まっているということです。それが何と五十六億七千万年の後だそうで、インド人の時間の感覚には呆れるしかありません。ともあれ、まだ仏ではありませんが、仏になることが決まっていますから弥勒菩薩を弥勒仏と呼ぶこともあります。
 で、親鸞は、往生を願ったそのとき、実際に往生するわけではないが、往生することが約束されている正定聚のくらいにつくのだと言うのです。なるほどこれで理不尽さ、不可解さはかなり緩和されます。「これから」がそのまま「もうすでに」だというのではさすがについていけませんが、往生自体はまだ「これから」先のことで、今生では往生が約束されるだけということでしたら、「ふうむ、そういうこともあるかな」と思えるかもしれません。

正定聚のくらゐ [『一念多念文意』を読む(その32)]

(2)正定聚のくらゐ

 おさらいしておきますと、隆寛が本願成就文、「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向、願生彼国、即得往生、住不退転(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」を引用し、「ひとへに多念にてあるべし」と説くのはこの経文に背くことになると述べているのを受けて、親鸞が本願成就文を丁寧に解説してくれたのでした。
 先回のところで親鸞はこの文の意味するところを字句に沿ってきっちり押さえていき、最後に「即得往生」について「(真実信心の人を)無碍光仏の御こころのうちに…おさめとりたまふとき、すなわち、とき・日おもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを、『往生をう』とはのたまへるなり」と注釈してくれました。
 今回の文が「しかれば」で始まりますのは、信心を得たそのときに「正定聚のくらゐ」につくということを、本願成就文を離れてより広い文脈から明らかにしていこうということです。ここで引用されるのは『無量寿経』と『如来会』から第11願すなわち「必至滅度の願」、そして『無量寿経』からその成就文です。
 その経文そのものについてはここでは触れません。とりわけ成就文の「生彼国者」は伝統的に「かの国にむまるれば」と読まれてきたのを、親鸞は「かの国にむまれむとするものは」あるいは「かの国にむまるるものは」(証巻)と読む(いや、親鸞はそう聞いていると言うべきでしょうが)ことの意味については前に述べましたので繰り返しません。結論として親鸞はこう言います、「すなわち往生すとのたまへるは、正定聚のくらゐにさだまる」と。
 ここで考えたいのは正定聚という可思議な立ち位置についてです。

本文4 [『一念多念文意』を読む(その31)]

          第3回 このよのうちにて不退のくらゐに

(1)本文4

 しかれば、必至滅度の誓願を『大経』にときたまはく、「設我得仏、国中人天、不住定聚、必至滅度者、不取正覚」と願じたまへり。また『経』にのたまはく、「若我成仏、国中有情、若不決定、成等正覚、証大涅槃者、不取菩提」とちかひたまへり。この願成就を、釈迦如来ときたまはく、「其有衆生、生彼国者、皆悉住於正定之聚、所以者何、彼仏国中、無諸邪聚、及不定聚」とのたまへり。これらの文のこころは、「たとひわれ仏をえたらむに、くにのうちの人天、定聚にも住して、かならず滅度にいたらずば、仏にならじ」とちかひたまへるこころなり。また、のたまはく、「もしわれ仏にならむに、くにのうちの有情、もし決定して等正覚をなりて大涅槃を証せずば、仏にならじ」とちかひたまへるなり。かくのごとく法蔵菩薩ちかひたまへるを、釈迦如来五濁のわれらがためにときたまへる文のこころは、「それ衆生あて、かのくににむまれむとするものは、みなことごとく正定聚に住す。ゆへはいかんとなれば、かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚はなければなり」とのたまへり。この二尊の御のりをみたてまつるに、すなわち往生すとのたまへるは、正定聚のくらゐにさだまるを不退転に住すとはのたまへるなり。このくらゐにさだまりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆへに、等正覚をなるともとき、阿毘跋致(あびばっち)にいたるとも、阿惟越致(あゆいおっち)にいたるともときたまふ。即時入必定ともまふすなり。

 (現代語訳) さて、第11願の必至滅度の願が『大経』に説かれていまして、「たとひわれ仏をえたらむに、くにのうちの人天、定聚にも住して、かならず滅度にいたらずば、仏にならじ」とあります。また『如来会』では「もしわれ仏にならむに、くにのうちの有情、もし決定して等正覚をなりて大涅槃を証せずば、仏にならじ」と誓われています。この願が成就されたことを、釈迦如来は「それ衆生あて、かのくににむまれむとするものは、みなことごとく正定聚に住す。ゆへはいかんとなれば、かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚はなければなり」と説かれています。最初の文は、「わたしが仏となる時、わたしの国の衆生が正定聚の位に定まり、必ず悟りをひらくことができないなら、わたしは仏にならない」と誓われているのです。二つ目の文は、「わたしが仏となる時、わたしの国の衆生が等正覚の位に定まり、必ず仏の悟りを得ることができないなら、わたしは仏にならない」と誓われています。このように法蔵菩薩が誓われたことを釈迦如来が濁りに満ちた世に住むわれらに説いてくださったのが三つ目の文で、それは「阿弥陀仏の浄土に往生しようとするものは、みな正定聚の位に定まる。なぜなら阿弥陀仏の浄土には邪定聚や不定聚はいないからである」ということです。これら弥陀・釈迦二尊の教えを見ますと、先ほど第18願成就文に「すなわち往生を得る(即得往生)」と言われたのは、正定聚の位に定まることを指し、それを不退転の位につくとも言われているのです。この位に定まりますと、必ず無上の大涅槃に至るべき身となるのですから、それを「等正覚となる」とも言い、あるいは龍樹はそれを「阿毘跋致、阿惟越致に至る」とも言い、さらには「即時に必定に入る」とも言うのです。

「これから」のことが「もうすでに」 [『一念多念文意』を読む(その30)]

(17)「これから」のことが「もうすでに」

 経典に「法蔵菩薩の物語」として説かれていることを身近に引き寄せて捉えてみましょう。
 ぼくは野生の動物たちの生きざまを見るのが好きで、そういうテレビ番組をよく観ます。ペットや動物園の動物たちではなく、アフリカなどの原野で自由奔放に走り回っている動物たちの姿、そこにはぼくらが普段眼を覆って見ないようにしている現実がそのまま露出しています。「食いつ食われつ」の現実です。草陰にじっと身を潜めて獲物を狙うヒョウと、それとは知らず、群れをつくって静かに草をはむシマウマ。突如ヒョウは躍り出て、狙いすました獲物めがけて突進します。かくして…。
 ぼくらはとかく判官びいきで、シマウマを哀れに思い、口の周囲を血で真っ赤に染めているヒョウを憎たらしく思います。しかし末期を迎えるシマウマの澄んだ眼を見ていますと、彼らはそんなぼくらの思いとは別世界に生きている気がしてきます。ヒョウもシマウマも、何としても「生きよう」と必死です。ヒョウはこの獲物を仕留めずにはおくものかと必死ですし、シマウマは追っ手から逃げようと必死です。でも同時に、そんな「食いつ食われつ」の中でも、「生かされている」ことに自足しているように思えるのです。「これが生きるということなのだ」と悟っているように見えるのです。
 いのちたちは「生きよう」と必死になりつつ、同時に「生かされている」ことを喜んでいる。「生きよう」とするのは「これから」のことです。でも「生かされている」のは「もうすでに」です。「これから」が「これから」でありつつ、同時に「もうすでに」であるという不思議がここにあります。

                (第2回 完)

うべきことをえたり [『一念多念文意』を読む(その29)]

(16)うべきことをえたり

 「うべきことをえたり」が、「いままで得ようと思っていたものを、ただいま得てしまった」という意味でしたら、ありふれたことで、どうってことはありませんが、そういうことではないでしょう。あるいは「これから先に得る予定だったが、どういうわけか、予定が変わりすでに得てしまった」ということでもありません。そうではなくて、「これから」しか得られるはずのないことを「もうすでに」得てしまったということです。
 しかしそんなことがどうしてありうるのか。「これから」が「これから」でありつつ、同時に「もうすでに」であるなどということはわれらの理解を絶しています。
 このことは、これまで見てきました、われらが往生(救い)を願っているに違いないのだが、実は弥陀から願うようにさせられているということとつながっています。われらが願うのは「これから」のことです。言うまでもありませんが、われらは「これから」のことしか願えません。しかし弥陀から願うようにさせられているのは「もうすでに」です。そして弥陀から願うようにさせられているのは、弥陀の願いがたしかにわれらに届くためです。弥陀がどれほど願っても、ただそれだけでは何ともなりません。それをわれら自身が願ってはじめて力になります。ただの本願が本願力になります。ですから弥陀はわれらに願うようさせなければならないわけです。
 さて、弥陀が願い、さらにわれら自身にも願うようにさせているということは、その願いは実のところ「もうすでに」実現しているのではないでしょうか。経典ではそのことを本願は十劫の昔に成就したと表現しています。法蔵菩薩は一切衆生を往生させるまでは仏にならないと願い、そしてその願いがめでたく成就して阿弥陀仏となった。としますと、もう一切衆生の往生という願いは実現しているということです。われらは往生を願います。そのとき往生は「これから」のことです。でも、実はわれらの往生は「もうすでに」実現しているのです。

「願われる」と「願うようにさせられる」 [『一念多念文意』を読む(その28)]

(15)「願われる」と「願うようにさせられる」

 この二つはどう違うか、改めて考えてみましょう。「願われる」ことは、ぼくら自身の意向とは無関係です。しばしば本人の願わないことが周りから願われます。本人はオリンピックでメダルを取ることなど願っていないのに、周囲から強く願われる。迷惑なことです。しかし「願うようにさせられる」場合、そうさせられていることに気づいているかどうかはともかく、本人自身が是非そうしたいと願っています。周りの願いと本人の願いがぴたりと一致しています。
 ここまできまして先の戸惑いに戻ることができます。往生を願うのも、本願を信じるのも、名号を称えるのもみなわれらなのに、願生も、信心も、念仏も、何から何まで全部「向こうから」やってくるということに対する戸惑いでした。どうにも納得いかないという思い。もしこの「向こうから」がただの受身でしたら、つまり、雨が降り、風が吹くようなものでしたら、こう言いたくなります、「この“わたし”はどうなるんだ」と。しかしこれが「使役の受身」でしたら、紛れもなくこの“わたし”が願生し、信心し、念仏するのです。それは天地がひっくり返っても間違いありません。でも、同時に弥陀からそう仕向けられているのです。そのことにふと気づく。
 さて「願生彼国」につづいて「即得往生」です。往生を願ったそのとき(即)、往生を得るというところです。この「得」について親鸞は「うべきことをえたりといふ」と言い換えますが、この表現の妙を改めて味わいたいと思います。すでに同じ表現がありました。「信心歓喜」の歓喜について「うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり」と述べていました。「これから」得るはずのこと(「うべきこと」)を、「もうすでに」得てしまった(「えたり」、「えてむず」)と言うのです。

ただの受身と使役の受身 [『一念多念文意』を読む(その27)]

(14)ただの受身と使役の受身

 (事情があり、4日間更新できませんでした。再開します。)
 法蔵はもちろんわれら衆生の往生を願ってくれています。それが本〈願〉ということです。でもただ願ってくれているだけでは力になりません。本願が本願力になるためにはわれら自身が往生を願わなければなりません。ですから法蔵は、われらの往生を願うだけでなく、われら自身が往生を願うように仕向けてくれるのです。故郷の親が子どもに「帰っておいで」と願うだけでは力になりません。子ども自身が「帰りたい」と願ってはじめて親の願いが通じたことになります。ですから親はさまざまな手を尽くして子ども自身がそう願うように仕向けるのです。
 ここに使役の役割があります。
 これは前にもお話したことがありますが、ぼくがこの講座で他力とは何かについて汗をかきながら一生懸命説明したあと、あるご婦人が「他力ってそんなに難しいことでしょうか。心臓は休みなく動いてくれていますし、胃も頼みもしないのに消化してくれています。これが他力ではないですか」と言われたことがあります。ぼくは「どうも違うな」と感じながら、どう違うかことばにできず、「はあ」と情けない反応しかできなかったのですが、いまなら言えます、「いや、それは他力ではありません」と。
 他力はもちろん他の力を受けるということですが、ただの受身ではありません。雨が降り、風が吹くのはぼくらには如何ともしがたい。ただそれを受けるしかありません。これが純粋の受身です。しかし他力とは、ぼくら自身がそうしたいと思っていることが、実は他の力がそう「せしめている」ということです。ぼくらから言えば、そう「せしめられている」ということ。ここに「ただの受身」と「使役の受身」の違いがあります。「願われる」と「願うようにさせられる」の違いです。