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本文9 [『一念多念文意』を読む(その67)]

(10)本文9

 「摂護不捨(しょうごふしゃ)」とまふすは、「摂」はおさめとるといふ、「護」はところをへだてず、ときをわかず、ひとをきらわず、信心ある人おば、ひまなくまもりたまふとなり。まもるといふは、異学異見のともがらにやぶられず、別解別行(べつげべつぎょう)のものにさえられず、天魔波旬(てんまはじゅん)におかされず、悪鬼悪神なやますことなしとなり。「不捨」といふは、信心のひとを、智慧光仏の御こころにおさめまもりて、心光にうちに、ときとしてすてたまはずと、しらしめむとまふす御のりなり。「総不論照摂余雑業行者(そうふろんしょうしょうよぞうごうぎょうしゃ)」といふは、「総」はみなといふなり。「不論」はいはずといふこころなり。「照摂」はてらしおさむと。「余の雑業」といふはもろもろの善業なり。雑行を修し雑修をこのむものおば、すべてみなてらしおさむといはずと。まもらずとのたまへるなり。これすなわち本願の行者にあらざるゆへに、摂取の利益にあづからざるなりとしるべしとなり。このよにてまもらずとなり。「此亦是現生護念(しやくぜげんしょうごねん)」といふは、このよにてまもらせたまふとなり。本願業力は信心のひとの強縁なるがゆへに、増上縁とまふすなり、信心をうるをよろこぶ人おば、『経』には「諸仏とひとしきひと」とときたまへり。

 (現代語訳) 「摂護不捨」と言いますのは、「摂」は「おさめとる」ということ、「護」は時、所に関係なく、人を選ばず、信心のある人を常に護ってくださるということです。護るというのは、仏教外の見解に破られたり、仏教内の異論に妨げられたり、魔王や悪鬼神に悩まされたりしないということです。「不捨」と言いますのは、信心の人を、智慧光仏のお心のうちにおさめ取り護ってくださって、そのお心の光の中で一時も捨てられるようなことはないということを知らそうということばです。「総不論照摂余雑業行者」と言いますのは、「総」は「みんな」ということです。「不論」とは「言わない」ということです。「照護」は「照らしおさめる」ということ。「余の雑業」というのは、さまざまな善い行いのことです。さまざまな善行をなし、さまざまな修行を好む人を照らしおさめとるとは言わないというのです。そのような人を護らないと言われているのです。そのような人は本願を信じる人ではありませんから、摂取の利益に与りませんと言うのです。この世において護りませんと。「此亦是現生護念」と言いますのは、この世において護ってくださるということです。本願の力は信心の人を救う強力な縁ですから、増上縁と言うのです。信心を得て喜ぶ人を『華厳経』に「諸仏と等しい人」と説かれています。

あるがままでいい [『一念多念文意』を読む(その66)]

(9)あるがままでいい

 釈迦は苦のよってくるところをじっと見つめ、それが煩悩であることに気づきました。スピノザ流に言えば「苦悩という感情について明晰かつ判明に表象した」ということですが、そうすることで苦悩が「苦悩であることをやめる」のです。
 釈迦は、苦のよってくるところが煩悩であるから、煩悩を滅することにより苦を滅することができると言ったのではないでしょう。そんなふうに解説している本が多いようですが、もし釈迦がそう言ったとすれば、ぼくにはもうついていけません。
 ぼくらに煩悩を滅することができようとは思えないからです。そして煩悩を滅するのはいのち終えるときであるとすれば、ぼくらは死ぬまで救われないという結論になります。いずれにしても釈迦の真意がそこにあるとは思えません。
 では釈迦は何を言おうとしたのか。苦のよってくるところが煩悩であることをじっと見つめることで、苦が苦でなくなると考えたと思うのです。
 「お天道様がみてござる」に戻りますと、「つねに見られている」と感じて、もう逃げ隠れできなくなり、じっとこころの内を見つめる。そこには疚しい思い、はしたない思いがとぐろを巻いています。それをじっと見るのは辛いものです。その辛さを無意識に感じていたから、これまで見ないように、見ないようにしてきたのです。
 ところがそのとき不思議なことが起こるのです。辛さが辛さでなくなるのです。辛いはずなのに、辛いと感じなくなる。そして、これまで見ないように気を張っていたのと比べて、何だかこころが穏やかになっています。もう隠さなくていいというのはどれほどこころ安らぐものでしょう。あるがままでいいというのは何とこころ安らかでしょう。
 これが「つねにてらしまもりたまふ」ということです。

お天道様が見てござる [『一念多念文意』を読む(その65)]

(8)お天道様が見てござる

 「これはわがものである」という思いの隣にはいつも「ひとから侵害されるかもしれない」という不安があり、そしてその不安のもとをただせば、自分もまた「ひとのものを侵害するかもしれない」という思いがあります。「わがものという思い」はこのような疚しさを孕んでいるのです。
 「財産は盗みである」と喝破した人がいました。プルードンという社会主義者です。彼がこのことばに託したものは別として、「わがもの」と「盗み」とが親戚関係にあるのは疑うことができません。だから「はしたない」のです。で、「わがものという思い」などないかのように、なにくわぬ顔をして生きていますが、「つねに見られている」ということは、このはしたない「わがものという思い」を見透かされることですから、何とも耐え難く、逃げ出したくなります。
 しかし「つねに見られている」ということは、逃げ隠れできないということです。「お天道様が見てござる」とき、身を潜めるところはありません。そして、お天道様から隠れることができないということは、自分自身から隠れることができないということです。これまでは自分で見ないようにしてきたのですが、こうなりますとじっと見つめるしかありません、「あゝ、自分の中にこんな疚しい思いが渦巻いている」と。そして、そのとき不思議なことが起こるのです。
 スピノザというオランダの哲学者は『エチカ』の中でこう言っています、「苦悩(受動)という感情は、われわれがそれについて明晰かつ判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」と。これは、釈迦が縁起ということばで言おうとしたことと重なります。

はしたない [『一念多念文意』を読む(その64)]

(7)はしたない

 浄土真宗に妙好人とよばれる人たちがいます。そうした人の中には「わがものという思い」などないかのように見える人がいます。たとえば因幡の源左。
 ある日、母親から芋を掘ってきておくれと言われ、鍬を持って芋畑に出かけたところ、誰かがせっせと芋を掘っていた。芋泥棒です。で、源左はそのまま踝を返して家に戻り、「あれ、源左、芋はどうした」といぶかる母親に、「どうも今日はおらんちの掘る番ではなかったようだ」と答えたというのです。
 こういう話を聞きますとおのずと頭が下がります。
 しかし、同時にこうも思うのです、もし源左のこころに何の葛藤もないとしますと、ぼくには縁のない話だと。源左にも「わがものという思い」があり、源左はそれをじっと見つめているという前提があってはじめてこの話はぼくに働きかけ、少しでも源左に見習わなければならないという気持ちにさせてくれるのです。
 浄土の教えでは、「わがものという思い」から完全に解き放たれるのは、この世を去るときであると説かれます。悟りをひらいて仏になるというのは「わがものという思い」から完全に解き放たれるということです。それまではこの思いと付き合いながら生きていくしかありません。
 「つねに見られている」のは耐え難いものがありますが、それはぼくらに「わがものという思い」があるからだということを見てきました。ぼくらは普段この思いをひとの目から隠し、自分にはそんなはしたない思いはありませんという顔をして生きています。この「はしたない」ということばは意味深長です。「わがものをもつ」のがどうしてはしたないのでしょうか。

ひとのものを侵害しようという衝動 [『一念多念文意』を読む(その63)]

(6)ひとのものを侵害しようという衝動

 ぼくにはひとのものを侵害しようという衝動なんかない、と言う人がいるかもしれません。しかし、ちょっと考えてみてください。誰かがあなたのものを盗んだら無性に腹が立ち、「おまえはどうしてぼくのものを盗るんだ」と怒りをぶちまけないでしょうか。で、どうしてそんなに腹が立つのかを冷静に見つめてみましょう。
 怒らないで聞いていただきたいのですが、無性に腹がたつのはあなたの中にもひとのものを侵害しようという衝動があるからではないでしょうか。もしあなたにそのような衝動がまったくなければ、自分のものが盗まれてもそれほど腹が立たないのではないかと思うのです。
 自分の中にもひとのものを侵害しようという衝動を感じるからこそ、この衝動のままに行動してはならないと厳しく自制しています。もう自制しているという意識がなくなってしまうほどその衝動をしっかり抑えつけていることでしょう。
 にもかかわらず、世のなかにはその衝動のままに振る舞うヤツがいるものですから、どうしておまえは…と怒りが激しく燃え上がるのではないでしょうか。ここから明らかになるのは、「わたしのもの」という観念にはもともと何か疚しさのようなものがあるということです。
 しかしその一方で、ぼくらにとって「わたしのもの」という観念は生きていく上で根本的なものです。ぼくらのすべてはこの観念の上に成り立っていると言っていい。これを軽く考えるべきではありません。ときどき「わがものという思いから離れなさい、そうすればあなたの前には素晴らしい人生がひろがっています」と言う人がいますが、その人は「わがものという思い」から離れることがどういうことを意味するのか突き詰めて考えたことがあるのだろうかと思ってしまいます。

所有の権利 [『一念多念文意』を読む(その62)]

(5)所有の権利

 考えてみますと、「これはオレのものだ」という主張は、周りから「そうだ、それはおまえが仕留めたものだからおまえのものだ」と認めてもらってはじめて有効になります。つまりそれは一種の権利の観念です。しかし彼らにそのような労働価値にもとづく所有権の観念(「労働によって得られたものは、労働をなしたものの所有に帰す」)があるとは思えません。彼らは腹が減ったら食べ、満腹したら寝るだけです。やはり彼らに「わたしのもの」はないと言わなければなりません。
 しかし、「これはオレのものだ」という主張は所有権の観念としてあるのだとしますと、どうして「わたしのもの」をひとの目から隠さなければならないのでしょう。どうして公然たるもの(パブリック)であってはいけないのでしょう。
 理由はただひとつ、「わたしのもの」の権利はいつも他から侵害される危険性があるからです。先ほどのトラに所有観念があるとしますと、残った肉は奪われないようにどこかに隠そうとするに違いありません、これはオレの大事な財産なのだから、と。このように「わたしのもの」という観念には最初から「他からの侵害」がおり込まれています。
 これは不思議といえば不思議です。「自分の力で得たものは、自分のものである」と互いに認め合いながら(そうでなければ「わたしのもの」という観念はもともとありません)、同時にいつなんどき奪われるかもしれないと戦々恐々としているのですから。
 どうして他からの侵害を恐れなければならないか。それは、実は、自分自身の中に「ひとのもの」を侵害しようとする衝動を感じるからです。自分にそういう衝動がある以上、他のひとにもあるはずだから、奪われないようにしなければとなるのです。

プライバシー [『一念多念文意』を読む(その61)]

(4)プライバシー

 あの大震災のとき避難所となった体育館には(そして今度の熊本でも)、ダンボールで隣との境界となるとともに多少とも目隠しの役割をする壁が作られていきました。それをテレビで見ているぼくらに、プライバシーのない生活の辛さがヒシヒシと伝わってきました。しかし、どうしてぼくらにとってプライバシーがかくも大事なのでしょう。
 群れをつくる野生動物たちを見ていますと、彼らにプライバシーを守ろうという意識があるとは思えません。敵から隠れることはもちろんありますが、お互いの目から隠れようとはしていないようです。彼らには「わたし」がないと思わざるをえません。彼らにも自他の区別はあるでしょう。アメーバだって自他の区別はできるはずです。しかしそれと「わたし」とは違います。
 プライバシーは私生活とか個人の秘密という意味ですが、プライベートのもとの意味は私有、「わたしのもの」ということで、そこから「ひとの目から隠さねばならない秘密」という意味が生じてきます。ぼくら人間には「わたし」があるが、動物にはないというのは、この「わたしのもの」という観念のことのようです。ぼくらには「わたしのもの」があり、それは他のひとには秘密にしておきたい。
 動物にだって「わたしのもの」の観念があるのではないかという疑問が出るでしょう。トラが仕留めた獲物を食べているときに、他のトラが近づいてくると牙をむき出して威嚇しますが、あれは「これはオレのものだ」と言っているのではないか。そのようにも思えますが、よく見ると、腹いっぱい食べたら、まだたくさん残っていても、惜しげもなくその場を去っていきます。としますと、あの威嚇はたんに「オレの食事を邪魔するな」ということで、「これはオレのものだから横から取るな」と言っているのではなさそうです。

眼差し [『一念多念文意』を読む(その60)]

(3)眼差し

 先回(第4回)は不思議な「たより」について考えました。その「たより」が届くことが、それだけで救いであるということでした。「たより」は普通「こえ」(名号)として届きますが、それは「ひかり」(光明)としても届くということ、今回はそのことについて考えてみたいと思います。「たより」が届くということは、その人のことが気遣われているということ、眼差しが向けられていることに他なりません。
 もうだいぶ前になりますが、テレビで「無縁社会」というドキュメンタリー番組がありました(のちに本にもなり注目されたようです)。そこに登場した一人住まいの男性の元旦の姿が衝撃的でした。ひょっとしたら誰かから年賀状が届いているかもしれないと集合住宅の郵便受けを見にいくのですが、開けてみると空っぽ。その男性の照れ笑いには深い悲しみが湛えられていました。
 誰からも自分の存在に眼差しが注がれていない悲しみ。
 このように誰かの眼差しが向けられていることが生きる力となるのですが、しかし、その一方で、ひとの目というものは窮屈なものであるとも言えます。とりわけ田舎では周りの人々の目がまとわりついてかなわない。そんな閉鎖空間から飛び出して都会で自由に生きたいと思うものです。
 今の若者たちは親元から離れたがらないそうですが(その方がいろんな点で便利でいいと言います)、ぼくらの若い頃はなるべく親から遠くで生活したいと思ったものです。誰からも見られないということは自由ということです。「見られる」ことは「見守られる」ことであると同時に「見張られる」ことでもあります。ぼくらにはどうしてもひとの目から隠したいことがあります。
 すべてがさらけ出されることは耐え難い。

見まもるということ [『一念多念文意』を読む(その59)]

(2)見まもるということ

 本願成就文を弥陀の本願を信じたそのとき正定聚のくらいにつくと読んだ親鸞は、それをさまざまな角度から裏づけようとしてきたのですが、その締めくくりとして、弥陀は信心をえたものを「このよにてまもらせたまふ」(現生護念)ことを善導の文にもとづいて明らかにしていきます。
 長いので2段に分け、まずその前段です。
 善導の『観念法門』という書には念仏者に五種の利益があると説かれ、その一つが「現生護念」の利益です。親鸞はそのことを述べる文の「照」という文字について「ときをきらはず、ところをへだてず、ひまなく真実信心のひとおば、つねにてらしまもりたまふなり」と解説してくれますが、この「つねにてらしまもりたまふ」ということに思いを潜めてみたいと思います。
 見まもると言います。
 ウィニコットというイギリスの精神分析学者は「子どもは誰かと一緒のときひとりになれる」と印象的な言い方をしていますが、子どもは誰かに見まもられているという安心があれば、その人の姿が見えなくてもひとりで遊べるという意味です。「見る」とは「向こうから」勝手に何かの像がやってくることではありません、「こちらから」ひかりを当てるということです。実際にライトをつけるのではなくても、眼からある種のひかりが出ている。そのひかりに照らされるのが「見られる」ということです。
 子どもがひとりでいられるのは、その姿は見えなくても、誰かのひかりに照らされて見まもられていると感じることができるからです。

本文8 [『一念多念文意』を読む(その58)]

            第5回 つねにてらしまもりたまふ

(1)本文8

 また、現生護念の利益をおしへたまふには、「但有専念阿弥陀仏衆生(たんうせんねんあみだぶつしゅじょう)、彼仏心光常照是人摂護不捨(ひぶつしんこうじょうしょうぜにんしょうごふしゃ)、総不論照摂余雑業行者(そうふろんしょうしょうよぞうごうぎょうしゃ)、此亦是現生護念増上縁(しやくぜげんしょうごねんぞうじょうえん)」とのたまへり。この文のこころは、「但有専念阿弥陀仏衆生」といふは、ひとすぢに弥陀仏を信じたてまつるとまふす御ことなり。「彼仏心光」とまふすは、「彼」とはかれとまふす、「仏心光」とまふすは、無碍光仏の御こころとまふすなり。「常照是人」といふは、「常」はつねなること、ひまなくたえずといふなり。「照」はてらすといふ、ときをきらはず、ところをへだてず、ひまなく真実信心のひとおば、つねにてらしまもりたまふなり。かの仏心に、つねにひまなくまもりたまへば、弥陀仏おば不断光仏とまふすなり。「是人」といふは、是は非に対することばなり。真実信楽のひとおば是人とまふす。虚仮疑惑のものおば非人といふ。非人といふは、ひとにあらずときらひ、わるきものといふなり、是人はよきひととまふす。

 (現代語訳) また善導和尚が「現生護念の利益」について教えてくださり、「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂護して捨てたまはず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁なり」と説いておられます。この文の意味ですが、まず「但有専念阿弥陀仏衆生」と言いますのは、ひとすじに阿弥陀仏を信じる衆生ということばです。「彼仏心光」の「彼」とは「かれ」ということで、「仏心光」とは、無碍光仏の御こころということです。「常照是人」の「常」とは「つねである」こと、ひまなく絶えずということです。「照」は「てらす」ということ、時や所を選ばず、ひまなく真実信心の人をいつも照らし守ってくださっているのです。無碍光仏のお心の中で、常にひまなく守ってくださることから、阿弥陀仏を不断光仏ともいうのです。「是人」と言いますのは、是は非に対することばです。真実信楽の人を是人と言うのです。偽りの心、疑惑の心を持つ人を非人と言います。非人と言いますのは、人にあらずときらい、悪い人ということで、是人とはよき人ということです。