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光明日月に勝過して [『浄土和讃』を読む(その35)]

(25)光明月日に勝過して

 あるとき突然光に照らされる思いがして不思議の感にとらわれるのですが、それは本願に「あひがたくしていまあふことをえた」ことの不思議であり、ひいては、もうすでに存在しないはずの過去に遭遇することの不思議だと述べてきました。「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり」とはその不思議を表わしています。十劫のむかしにいま遇うことができた不思議。十二光の最後、超日月光についての和讃を読みながら、さらにその不思議を味わっていきましょう。

 「光明月日に勝過して 超日月光となづけたり 釈迦嘆じてなほつきず 無等等(むとうどう)を帰命せよ」(第15首)。
 「ほとけのひかり日月に、超えるとなづけほめられる。釈迦がほめても尽くせない。比類なき仏帰命せん」。

 もとの曇鸞の偈は「光明照曜すること日月に過ぎたり ゆゑに仏を超日月光と号けたてまつる 釈迦仏歎じたまふもなほ尽きず ゆゑにわれ無等等を稽首したてまつる」です。ここで無等等とは、他にならぶものがないということで、阿弥陀仏を指します。日光・月光の有り難さは言うまでもないことですが、でも弥陀の光明には比べられないということで、無等等と言っているのです。むかしの本願にいま遇うことができた喜びは、どんなに明るい光に遇えた喜びよりも大きいというのです。
 いや、本願に遇えた喜びは他の喜びとは別種ですから、もう比較を絶していると言うべきでしょう。しかし他の喜びとどう違うのか。今年もまた日本人がノーベル賞をもらったということで沸き立っています。自分がもらったわけではないのに、同じ日本人だからと言ってどうしてそんなに騒ぐのかと思いますが、本人はさぞかし大きな喜びに包まれていることでしょう。その喜びと本願に遇えた喜びを比べてみることで、「光明日月に勝過して」いる所以を考えてみます。

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あひがたくしていまあふことをえたり [『浄土和讃』を読む(その34)]

(24)あひがたくしていまあふことをえたり

 本願に「あひがたくしていまあふことをえた」とき、突然光に照らされるように感じるのですが、それは本願をふと思いだしているのに違いありません。実はもうすでに本願に遇っているのに、そのことをすっかり忘れていて、あるときそれを光のなかで思いだすのです。もしそのときはじめて本願に遇うのでしたら、それが本願であることがどうして分かるでしょう。「あゝ、いま遇うことができた」と思えるのは、いつかすでに遇ったことがあるからです。
 少し前のところで(20)、プラトンの想起説を紹介しました。ぼくらが思いもよらない真理に目覚めることができるのは、それにすでに遇ったことがあり、それを想い起こすからだというのでした。もっと身近な例としては、ある女性(男性)と出会い、「あっ、この人だ、この人を待っていたのだ」と思う。不思議な縁としか言いようがありませんが、これも、実はすでに(前世で?)その人に遇ったことがあるに違いありません。でなければ、「あっ、この人だ」と思いようがありません。
 さてここで考えたいと思いますのは、すでに遇っていたことを思いだすということの不思議です。「何かを思いだす」ということは、当たり前のことでありながら、考えてみますとつくづく不思議なことです。たとえば昨日ある人に会ったという事実はもうどこにもありません。いや、それは大脳の中に記憶として残っていると言われるかもしれませんが、そして科学者は大脳皮質の記憶野を示してここにあると言うかもしれませんが、そこにあるのはある種の物質にすぎません。
 なるほどその物質を切除してしまえば、記憶が消えてしまうでしょう。その意味ではその物質は、記憶にとって不可欠の条件であることは間違いありません。しかしその物質の中に過去が記憶され、そしてそれが想起されるということは依然として未解明のままです。過去が記憶され想起されることの不思議は一ミリでも減ったわけではありません。

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こころもおよばれず、ことばもたへたり [『浄土和讃』を読む(その33)]

(23)こころもおよばれず、ことばもたへたり

 次に進みます。無称光です。

 「神光(じんこう)の離相をとかざれば 無称光仏となづけたり 因光成仏のひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり」(第14首)。
 「ほとけのひかり相(かたち)なく、こころおよばぬほとけとぞ。ひかりとなれるほとけをば、諸仏ひとしくほめあげる」。

 もとの曇鸞の偈は「神光相を離れたれば名づくべからず ゆゑに仏をまた無称光と号けたてまつる 光によりて成仏したまへば光赫然(かくねん)たり 諸仏歎じたまふところなり、ゆゑに頂礼(ちょうらい)したてまつる」です。
 「神光」とは『無量寿経』に出てくる「威神光明」の略でしょう。「離相をとかざれば」は分かりにくい言い回しですが、曇鸞の偈を見ますと「相を離れたれば」とありますから、「姿かたちがない」ということで、だから「説くことができない」というのです。「称」にはいろいろな意味がありますが(はかる、つりあう、たたえる、となえる、とく、なづける、など)、ここでは「とく」、あるいは「なづける」でしょう。「因光成仏のひかり」も分かりにくいですが、これも曇鸞の偈から「阿弥陀仏は光明の誓いを因として成仏された」と解することができます。
 第13首は難思光(思いはかることができない光)で、ここでは無称光(語ることができない光)、どちらも「こころもおよばれず、ことばもたへたり」ということです。
 『唯信鈔文意』に、阿弥陀仏について「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり」とありますが、その光明についても同じことです。さてしかし、ぼくとしましては「こころもおよばれず、ことばもたへたり」と言ってすましていることができません。いらざるはからいとお叱りを受けるかもしれませんが、それでも「この不思議な光はいったい何だろう」と考え続けざるをえないのです。

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難思議ということ [『浄土和讃』を読む(その32)]

(22)難思議ということ

 次は難思光(なんじこう)です。

 「仏光測量(しきりょう)なきゆゑに 難思光仏となづけたり 諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ」(第13首)。
 「ほとけのひかりはてもなく、おもいもことばもたえはてる。諸仏は弥陀をほめたたえ、すくいのちから称賛す」。

 もとの曇鸞の偈は「その光、仏を除きてはよく測るものなし ゆゑに仏をまた難思議と号けたてまつる 十方諸仏往生を歎じ その功徳を称したまへり、ゆゑに稽首(けいしゅ)したてまつる」です。「測量なき」とは、曇鸞の偈からしますと、仏のことは仏にしか分からず(唯仏与仏)、その光をわれらは測り知ることができないということです。だから難思議だというのです。
 実際のところ、突然どこからともなく光に照らされるとか、誰からともなく声がするなどというのは尋常ではありません。現に存在しないものを見たり、ありもしないものを聞くのは普通幻視とか幻聴とか呼ばれ、病的な現象とされます。しかし考えてみますと、ぼくらはごく普通に現に存在しないものを見たり聞いたりしているのではないでしょうか。ぼくには昨日の出来事の一こまが目の前にアリアリと見えますし、その時の人の声や周りの音が耳の底に残っていますが、これは過去を想起しているのであって、まったく病的なことではありません。
 幻覚と想起とはどう違うのでしょう。言うまでもなく、幻覚は「いまここ」にありもしないものを「いまここに」見たり聞いたりすることですが、想起は「いまここ」にありもしないものを「あのとき、あの場所」で見たり聞いたりしているのです。すぐ前のところで言いましたように(20)、光をこうむるという経験は、気づいていなかったことにふと気づくことです。それは、ほんとうはすでに知っているのに、どういうわけかすっかり忘れていることを、あるときふと思い出すことです。
 突然どこからともなく光に照らされるなどと言いますと、何かいかがわしく思われるかもしれませんが、でも何かをふと思いだすとき、突然光に照らされるように感じるのではないでしょうか。何とも不思議ですが、そもそももうすでに存在しないことを思い出すこと自体が不思議なことです。

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聞光力ということば [『浄土和讃』を読む(その31)]

(21)聞光力ということば

 続いて不断光です。

 「光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力(もんこうりき)のゆゑなれば 心不断にて往生す」(第12首)。
 「ほとけのひかりつねにあり。たえぬひかりのほとけとぞ。たまわる信のちからゆえ、こころにたもち往生す」。

 もとの曇鸞の偈は「光明一切の時にあまねく照らす ゆゑに仏をまた不断光と号けたてまつる 光力を聞くがゆゑに心断えずして みな往生を得、ゆゑに頂礼(ちょうらい)したてまつる」です。光が不断であるゆえに、心(信心)も不断であるとうたっています。
 ここで目を引くのは「聞光力」ということばです。このことばの元は『無量寿経』の「もし、衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して、至心に断えざれば、意の願うところに随って、その国に生まることを得」でしょう。「光明の威神功徳を聞きて」を「光力を聞きて」と言っているのです。まず光力という表現ですが、これは本願力と同じく、光を「力用(りきゆう、はたらきのことです)」と捉えています。光が照らされるということは、忘却の中にまどろんでいるわれらの頬をピシャリと平手打ちし、目を覚まさせることです。
 さてその光力を「聞く」というのですが、これが何とも味わい深い。光は普通「見る」ものでしょうが、それを「聞く」と言う。
 合理的に解釈すれば、光力の「いわれ」を聞くということになるでしょうが、それでは何ともまだるっこい。やはり光を直に聞くのです。パウロのことを思い出します。キリスト教徒たちを逮捕しようとパウロ(その時の名はサウロ)が「道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照らした。彼は地に倒れたが、その時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は『主よ、あなたは、どなたですか』と尋ねた。すると答があった、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである…』」(『使途行伝』9章)。パウロは光を聞いたのです。

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忘却と想起 [『浄土和讃』を読む(その30)]

(20)忘却と想起

 これまで「気づく」ということばを繰り返し使ってきました、光をこうむるとは、これまで気づいていなかったことにふと気づくことだ、というように。ぼくらは智恵が与えられると聞きますと、何か思いもしなかったような新しい認識が授けられるような印象をもちますが、そしてそれが悟りであるかのように思いますが、どうもそうではなさそうです。もうすでにあったのに、それに気づいていなかっただけで、あるときふとそのことに気づく。これが智恵の光をこうむるということではないでしょうか。
 あるいはこう言っても同じです。すでにあったのに、そのことをすっかり忘れていた。あるときそのことをふと思い出す。これが知恵の光に照らされることではないかと。そういえばプラトンは認識とは「想起」だと言っていました。ぼくらはむかし(まだこの世に生まれる前に)真理(イデア)を目の当たりにしていたのに、それをいつしかすっかり忘却してしまっている。それを何かのきっかけでふと想い起こし、「あゝ、これはむかし見たことがあるぞ」と思う。これが真理の認識だと言うのです。
 神話的ではあるものの、気づくということをうまく言い当てているのではないでしょうか。ぼくらは、あることを(自分に不都合なことを)ほんとうはすでに知っているのに、どういうわけかすっかり忘れています。ところがあるときふとそれを思い出す。これが気づきです。フロイトならばプラトンの忘却を「抑圧」と言うでしょう。ほんとうは知っているのに、それをすっかり忘れてしまうのは、見たくないから無意識の奥に押し込んでいるのだと。見ないように必死に忘れているのですから、それを自分から思い起すことはありません。向こうから想い起こさせられるのです。
 「オレは悪人だ」と知っているのですが、それを無意識の領域に押し込むことですっかり忘れ、「オレはほどほどの善人だ」と思っています。しかしそこに不思議な光をこうむり、ふと「あゝ、オレは悪人なのだ」と思いだす。闇に光が当てられることで、闇が光になるのではありません、闇が闇であることが明らかになるのです。

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智恵の光 [『浄土和讃』を読む(その29)]

(19)智恵の光

 次は智恵光です。

 「無明の闇を破するゆゑ 智恵光仏となづけたり 一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉(たんよ)したまへり」(第11首)。
 「無明の闇を破るゆえ、知恵のひかりのほとけとぞ。諸仏も弟子もみなともに、ほめて喜びあらわさん」

 もとの曇鸞の偈は「仏よく無明の闇を破す ゆゑに仏をまた智恵光と号けたてまつる 一切諸仏三乗衆 ことごとくともに歎誉したまへり、ゆゑに稽首(けいしゅ)したてまつる」です。弥陀の光明はわれらの無明の闇を破ってくれますから、これを智恵の光となづけるというのです。ここで三乗衆と言いますのは、声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩を指し、小乗・大乗の修行者たちのことです。
 ここでは無明と智恵とが対となっています。光が闇を破るというのは、智恵が無明を破ることだというのです。
 親鸞はよく光明とは智恵のことだと言います。光明をこうむるということは、智恵を与えられることに他ならないと。ここで考えたいのはこの「智恵」というものについてです。仏教で智恵と言いますのは、ものごとの実相を認識する無分別智のことで、これを得た状態が菩提、あるいは正覚です。修行者たちはこれを得ようとしてさまざまな行を積むわけですが、その智恵が向こうから与えられるというのです。これが他力ということに違いありませんが、さてしかし智恵が与えられるということをどう理解すればいいか。
 普通よく言われるのは、知識は与えることができるが、智恵はみずから磨くしかないということです。あるいは、与えられた知識をため込むだけではダメで、それを駆使して自分で考えることができるようにならなければならないと。この常識からしますと、与えられるのは知識であって智恵ではないように思われます。知識はそれがある人からない人へ伝えることができますが、智恵はそういうものではなく、みずからつかみ取るしかないのではないか、そう思えます。
 としますと、智恵の光が届けられるというのはどういうことか。

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安慰ということ [『浄土和讃』を読む(その28)]

(18)安慰ということ

 「不正をしようと思えばできるのだが、自制して不正をしない」というのは、もうひとつ言いますと、「ほんとうは不正をしたいのだが、自制して不正をしない」ということです。それは人間として立派なことであるのは間違いありません。世の中の秩序はこうした自制によって成り立っています。しかし「ほんとうは不正をしたい」という思いがあることにおいては、実際に不正をする人と何も変らないとも言えます。「欲に目がくらんで」不正を働くのですが、「欲に目がくらんで」いることにおいて、実際に不正を働く人も、グッと自制する人も何も変りません。
 「欲に目がくらんでいることにおいて同じじゃないか」と思うことは、「あゝ、オレは悪人だ」と気づくことです。
 「オレはほどほどの善人だ」と思っている人は、世の悪人を許せません。「あんなヤツは地獄におちろ」と思います。一方、「あゝ、オレは悪人だ」と気づいている人は、「あいつもオレも所詮同じだ」と思います。だからと言って、不正を働くことが是認されるわけでないことは言うまでもありません。不正を働いた人には「きみのやったことは悪である」ときっぱり言わなければなりません。でも、「オレはほどほどの善人だ」と思っている人の「許せん!」と、「あゝ、オレは悪人だ」と気づいた人の「きみのやったことは許されない」との間には大きな開きがあります。
 前者は悪にとらわれていますが、後者はもう悪にとらわれなくなっています。その違いは両者の目に現われています。前者の目は怒りに血走っていますが、後者の目には静かな悲しみがあります。先に(16)、「オレはほどほどの善人だ」と思っている方が「オレは悪人だ」と思うよりよほど安気ではないかと言いましたが、実際は違うようです。「世の悪人どもは許せない」と怒りに身を震わせるのはとてもシンドイことです。そこに「安慰」はありません。それに対して「オレは悪人だ」と気づくところには、意外にも静かな安らぎがあるのです。それがこの和讃に言う「法喜をう」ということでしょう。

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許せない! [『浄土和讃』を読む(その27)]

(17)許せない!

 ここで改めて思い出したいのは、自分が何かにとらわれていることに気づくことは、取りも直さずそれにとらわれなくなるということです。それがどうして喜びであるかは、「とらわれなくなる」というのがどういうことかを具体的に了解できれば納得できそうな気がします。
 「世の不正は許せない!」という思いについて考えてみましょう。
 だいぶ前になりますが、兵庫県議が政務調査費を不正取得したことが発覚し、行われた記者会見の模様が大きな話題となりました。大の大人が子どものようにワーワー泣き喚く姿があまりに見苦しかったからです。そんな不正が明るみに出ますと、誰しも怒りを覚えます。市民の税を不正にわがものとするとは何ごとかと腹が立つのは当然で、腹が立たない人の方がどうかしていると思います。
 さてそこでこの怒りの元にあるものを見定めたいのですが、すぐ分かるのは、同じような不正をしている人(そんな政治家たちは大勢いるのではないでしょうか)は、おそらく彼を許せないとは思わないということです。つまり、許せないと思うのは、自分は不正をしていないのに、している人間がいるからです。もう一歩踏み込んで言いますと、自分は不正をしたくてもできないのに、あいつは不正ができることをいいことに不正を働いている、それが許せないのです。
 あるいは、不正ができる条件にあっても不正をしない人は、その条件をいいことに不正をする人間を許せないでしょう。自分は不正をしてはいけないと自制しているのに、あいつはしたい放題に不正をしている、それが許せない。自分は悪に手を出さないように必死に頑張っているのに、あいつは簡単に手を出している、何というヤツだ、となります。ここには、「自分は善人だ」という思いがあります、しようと思えば不正ができるのにしていないのですから。だからあの悪人は許せない。

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法喜をう [『浄土和讃』を読む(その26)]

(16)法喜をう

 次の和讃は歓喜光についてです。

 「慈光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには 法喜をうとぞのべたまふ 大安慰(だいあんに)を帰命せよ」(第10首)。
 「慈愛のひかりこうむって、はるかにわれにとどくとき、身によろこびが満ち満ちる。大安心に帰命せん」

 光をこうむることは喜びであるということですが、まず確認しておきたいことは、光をこうむることは、いままで気づいていなかったことに気づくことであることで、これについては繰り返し述べてきました。
 いままで気づいていなかったことの中には嫌なことがいっぱいあります。いや、気づかないままであった方がよほどいいと思われることが大半と言ってもいい。「あゝ、これは煩悩だ」と気づくこと、「あゝ、オレは悪人だ」と気づくこと、こんなことがどうして喜びなのでしょう。煩悩などに気づくことなく、欲を起し腹を立てるのは当然だと思っている方が気楽でいいのではないでしょうか。悪人だなどと気づくことなく、ほどほどの善人だと思っている方がよほど安気ではないでしょうか。
 「あゝ、これは煩悩だ」、「あゝ、オレは悪人だ」と気づくことそれがどうして「法喜をう」ることになるのでしょう。
 「あゝ、これは煩悩だ」と気づくことで、煩悩が消えてしまうのなら、それは大いなる喜びでしょう。「あゝ、オレは悪人だ」と気づくことで、悪人ではなくなるのなら、これまた大きな喜びが湧き上がるでしょう。しかし、何度も言いますように、煩悩の気づきは煩悩が消えることではなく、悪人であることの気づきは悪人であることがリセットされることではありません。これまでと何も変わらず、しかもこれまで目にしなくてもよかったことが目の前に突きつけられるのです。これは喜びなどというものではなく、むしろ悲しみではないのでしょうか。

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