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対症療法 [『浄土和讃』を読む(その166)]

(13)対症療法

 考えてみますと、ぼくらはみな死という病をかかえています。死はまだまだ先と思っていても、死という病はすでにいつもぼくらのなかにあります。そしてこの病を根治することはできません。死は必ず勝利を収めるようになっています。としますと、ぼくらにできるのは対症療法だけです。死がもたらす恐れや不安を抑えることしかできません。
 煩悩という病も同じで、それを根絶することは生きることそのものを根絶することですから、生き続ける限りこの病とつきあっていくしかありません。
 その対症療法として南無阿弥陀仏のくすりが素晴らしい効能を発揮するのです。このくすりが身体の中に入りますと、煩悩をもったままでこころが明るくなります。南無阿弥陀仏は光明ですから、それを服用することで内側から明るくなるのです。「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ」とはそういうことです。阿弥陀仏が南無阿弥陀仏となって身体の中に入ったのですから、もう「如来とひとし」いのです。そして「大信心は仏性なり」で、南無阿弥陀仏で満たされたこころ(信心)は仏性に他なりません。
 では南無阿弥陀仏というくすりに気づかないとどうなるか、「諸経和讃」の最後の一首はそれをこううたいます。

 「衆生有碍(うげ)のさとりにて 無碍(むげ)の仏智をうたがへば 曾婆羅頻陀羅地獄(そうばらびんだらじごく)にて 多劫衆苦(たこうしゅく)にしづむなり」(第95首)。
 「衆生の智慧はかぎりあり、その智をもってかぎりなき、仏智をうたがう報いには、地獄の苦しみまっている」。

 曾婆羅頻陀羅地獄とは、無間地獄よりさらに下にある地獄で、ここに堕ちると無間地獄の衆生をみて「あら楽しげやと」(左訓による)思うそうです。「信心よころぶ」ひとは「如来とひとし」でしたが、「仏智をうたがふ」ひとは「曾婆羅頻陀羅地獄にて、多劫衆苦にしづむ」と言うのです。念のために言っておきますが、曾婆羅頻陀羅地獄に堕ちるのはいのち終ってからではありません、仏智を疑っている今生ただいま「多劫衆苦にしづむ」のです。南無阿弥陀仏というくすりがあるのに、それに気づいていないからです。

タグ:親鸞を読む
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