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無碍の仏智をうたがへば [『浄土和讃』を読む(その167)]

(14)無碍の仏智をうたがへば

 ぼくらがくすりを飲むのは、それが病気に効くだろうと思うからです。そこに疑いがあるときは飲みません。まずくすりの効能について吟味した上で、飲んだり飲まなかったりする。当たり前のことです。ところが南無阿弥陀仏という特殊なくすりは、気がついたらもう飲んでいるのです。そしてそのとき素晴らしい効能を確認しています。こころが明るくなっているのです。南無阿弥陀仏というくすりに気づくというのは、それがすでに身体の中にあるのに気づくということです。
 では南無阿弥陀仏というくすりに気づかないというのはどういうことか。言うまでもないでしょう、すでにそのくすりが身体の中にあるのに、そのことに気づかないということです。このくすりはみんなの身体の中にすでにあるのです。「一切衆生悉有仏性」とはそういうことです。ところがどういうわけか、そのことに気づかない。そしてこれまで繰り返し述べてきましたように、あるものに気づかないということは、それが存在しないのと同じことです。
 南無阿弥陀仏というくすりがあることに気づいていない人がいます。その人には、そんなものはどこにも存在しません。ですからそれに気づいた人から「煩悩の病によく効くいいくすりがあります」と勧められたりしますと、「この人は何を言っているのだろう」と訝しく思うに違いありません。その人も日々欲をおこし、腹をたてているでしょうし、それを仏教では煩悩と言うことも知っているでしょう。でも、おそらく欲をおこしたり腹をたてることに煩い悩むことはありません(金子大栄氏が教えてくれましたように、欲をおこし腹をたてること自体が煩悩ではなく、そのことに煩い悩むことが煩悩です)。煩い悩むことがなければ、それに効くくすりも無縁の存在です。かくして「無碍の仏智をうたが」い、その結果「多劫衆苦にしづむ」ことになるのです。

               (第10回 完)

タグ:親鸞を読む