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矛盾について(その17) ブログトップ

8月13日(金) [矛盾について(その17)]

 話し合いの必要があるということは、何が正しいかは話し合ってみなければ分からないからです。話し合うことではじめて何が正しいかが明らかになるという前提があるから話し合いが成立するのです。何が正しいかは予め決まっているが、ただそれが分からないだけなら、話し合う意味はないでしょう。事実の記述の場合がそうです。何が正しいかは事実そのものによって定まっているのですから、事実に問いただせばいいのです。
 もうひとつ、話し合いが無意味となる場合があります。どこかに真理の基準が定められていると考える場合です。例えば『聖書』や『コーラン』には何が正しいかを見分ける基準が書いてあるとする立場。そう考える人は意見の異なる人と話し合おうとはしないでしょう。そんなことをするより、『聖書』や『コーラン』を読んで真理の鍵を探せばいいのです。
 話し合うのはどちらが正しいかを見きわめるためですが、それは正しさの基準についての合意を目指すことでもあります。つまり、話し合いは「何が正しいか」とともに「何が正しさの基準か」をめぐって行われるということです。ここでいう基準とは、どんなケースにも適用できるような一般的なものではなく、それぞれの具体的な状況における基準です。どんな場合にも使える便利な基準で合意したとしましても、それはたいして役に立ちません。その一般的基準をどのようにこの具体的なケースに適用するかについて、もうひとつ別の基準が必要になるからです。
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