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矛盾について(その111) ブログトップ

11月17日(水) [矛盾について(その111)]

 「こんな自分は救われないが、こんな自分が救われる」。また元に戻ってきました。どうしてこんなことがありうるのかを問うたのです。これまで考えてきたことから言えるのは、起こっているのは一つの事態だということ、すはわち「深く信じること(深信)」、こころの奥底でズシンと感じることです。それはしかし機(こちら)からすると「こんな自分は救われない」と感じることであり、法(向こう)からすると「こんな自分が救われる」と感じることなのです。善導は「一つには云々、二つには云々」という言い方をしていますが、それは同じことがらを機と法の二つの側面から言っているのです。
 これは富士山静岡側から見るときと山梨側から見るときでは違って見えるのと似ていますが、いまの場合は「見る」のではなく「聞く」です。一つの声が二様に、しかも全く対立するものとして聞こえる。重い病を得て「何でオレが」と苦しむとき、「あいつならいいのか」と聞こえます。ところが、そう聞こえて「こんな自分は生きている甲斐がない」と悲しみに暮れるとき、「そのまま生きていていい」と聞こえるのです。「あいつならいいのか」とは「あいつにも生きる場所がある」ということで、「そのまま生きていていい」とは「お前にも生きる場所がある」ということです。「みんなにひとしく生きる場所がある」という声が、あるとき「あいつにも生きる場所がある」と聞こえ、同時に「お前にも生きる場所がある」と聞こえる。
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