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矛盾について(その241) ブログトップ

3月31日(木) [矛盾について(その241)]

 かなり長い道のりを歩んできましたが、これまでのところで語り残してきたことを補足していきたいと思います。まずは宗教について。
 少し前の中日新聞文化欄に「親鸞のいいたかったこと」と題してこんな文章が載りました。筆者は、秋葉原で無差別殺傷事件を起こした青年をはじめ、いまの若者たちには宗教的な救いの世界があることを教えられていないと述べた上で、親鸞は「そういう人に、あなたを見捨てはしない、と呼び叫ぶ本願のはたらきがあなたに向かって届いているよ、その声にしっかりと耳を傾けてごらん、そして阿弥陀仏の願いを心に受け止めてごらん。すーと、安らぐ世界があるよ」と言っているのだと説きます。「親鸞のいいたかったこと」を若者に向かってやわらかく語りかけようとしている姿勢には共感を覚えますが、これではしかし若者のこころに届くはずがないと思いました。
 宗教的な救いの世界を知らされていない若者たちに対して、こうしたことばで救いの世界を届けられると本気で思っておられるのでしょうか。前半だけを読んでこんなふうに言うのは失礼かもしれませんが、ぼくには後半を読まなくても分かるような気がします。「本願のはたらき」と言い、「阿弥陀仏の願い」と言いますが、そうしたことばに若者たちは躓くのです。「本願って何だよ?」、「阿弥陀仏ってどこにいるのさ?」というところに引っかかるのです。そんなことが分からないとすれば、もう「宗教的な救いの世界」にどっぷり漬かってしまって世俗の感覚が麻痺していると言わざるを得ません。
 ここで「その声にしっかり耳を傾けてごらん」と言われますが、どんなに耳を澄ましてもそんな声はどこからも聞こえないよ、という答えが返ってくるのが落ちです。この言い方では、どこかに阿弥陀仏がおわして、「あなたを見捨てはしない」という願いをもっていてくださるということですが、これは現代の普通の若者にとって荒唐無稽なお話にすぎません。そんな彼らに本気で親鸞のメッセージを伝えようとするなら、「あなたを見捨てはしない」という声は一体何なのかを、阿弥陀仏や本願といったことばに頼ることなく、日常のことばで言わなければなりません。

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