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矛盾について(その255) ブログトップ

4月14日(木) [矛盾について(その255)]

 共時性に戻りますが、これは「つながりの感覚」でしょう。バラバラのように見えても、実は「いまここで」つながりあっているという感覚。
 宗教の「物語」と科学の「物語」とを橋渡し(翻訳)しようとするとき、この「つながりの感覚」が重要な手がかりになるのではないでしょうか。もう一度「事象そのものへ」立ち返りましょう。見ず知らずの方が、すれ違いざま「おはようございます」と挨拶してくださった。それがぼくには「そのまま生きていていい」と聞こえたのでした。これを宗教の「物語」にしますと、「仏」が見ず知らずの方の口を借りて「そのまま生きていていい」と言ってくれた、となります。一方、科学の「物語」では、見ず知らずの方の「おはようございます」の声が、ぼくのこころの中で複雑な化学反応を起こして「そのまま生きていていい」と聞こえた、となります。
 このままでは不幸な平行線ですから、そこに橋を架けようとしますと、見ず知らずの方とぼくとの「つながりの感覚」が手がかりになります。「おはようございます」の声は、何か温かいものをぼくのこころに流し込んでくれます。そしてそのとき、全く存じ上げない方なのに、その方とぼくとはつながっているという感覚があります。これは宗教の「物語」でも科学の「物語」でもありません。そのような状況で誰でも「感じる」ことです。悲しみに暮れている人とともにいるうちに、思わず「もらい泣き」してしまうのと同じことです。ぼくらはそのような「感じる」世界に住んでいることを誰も否定できません。

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