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矛盾について(その263) ブログトップ

4月22日(金) [矛盾について(その263)]

 「感じる」ことには真も偽もないことが主観的(人それぞれ)だと思い込ませる元になっているのではということでした。
 「知る」ことに関して対立が生まれたときは、事実に照らしてどちらが正しいかを検証することができるが、「感じる」ことで対立したら、もうどうしようもないということ、ここです。ぼくがあるときふと「つながり」を感じたとしても、他の誰かがそれを感じなかったら、もう何ともなりません。ぼくにとっては「つながり」は紛れもなく存在しますが、それを感じない人にはどこにもそんなものは存在しない。ぼくがその人に「ほら、ここにつながりがあるじゃないか」と言っても、その人には馬耳東風でしょう。
 何だか前と同じような壁にぶつかった気配です。
 科学の「物語」と宗教の「物語」が「ぼくはぼく、きみはきみ」の平行線ではなく、互いに理解できるように、何とかして橋を架けようとしたのでした。そこで「仏」という宗教のことばを「つながり」という日常のことばに翻訳しました。「つながり」という日常のことばなら科学の「物語」にも宗教の「物語」にも受け入れられるだろうと。さてしかしその「つながり」もまた、それを感じる人と感じない人とで「ぼくはぼく、きみはきみ」の平行線になってしまいますと、またもやスタート地点に戻ってしまいます。感じる人はこちら岸、感じない人は向こう岸にいて大きな流れに隔てられ、どんなに大きな声で呼びかけても聞こえないのです。

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