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矛盾について(その267) ブログトップ

4月26日(火) [矛盾について(その267)]

 これまで「仏」を「つながり」という日常のことばに翻訳できないかということを検討してきました。「つくるつながり」ではありません、「感じるつながり」です。そのとき、何と言っても一番大きな障害として立ちはだかるのが、「仏」は「つながり」のような「関係」の範疇ではなく「実体」の範疇ではないかという疑問です。こんなことば遊びはどうでしょう、「次のことばの中から“仏”と同じ範疇のものを一つ選びなさい。“白い”、“上”、“人”、“歩く”」。答えはやはり“人”でしょう。選択肢の中で実体の範疇に属するのは“人”で、“白い”は性質、“上”は関係、“歩く”は状態を表します。“仏”は性質でも関係でも状態でもなく実体に属すると考えるのが普通です。
 範疇という難しいことばを使ってきましたが、アリストテレスによりますと、文の述語になりうることばには「実体」「性質」「量」「関係」など10種類あり、それらを範疇(カテゴリー)と呼んだのです。あるものについて「それはどのようなものか?」と問い、「それは○○である」と答えるとき、10種類の答え方があるということです。先ほど上げました“白い”、“上”、“人”、“歩く”は、「富士の山頂は白い」、「その本は机の上にある」、「アリストテレスは人である」、「ぼくは近所を歩きます」のように使われ、それぞれ性質、関係、実体、状態の範疇に属するのです。
 ところでこれらの文の主語となっている「富士の山頂」「その本」「アリストテレス」「ぼく」は、この世にただひとつしかない個物で、アリストテレスはそれを「第一実体」(あるいは「基体」)と呼び、述語として使われる「第二実体」(こちらは人や動物など種や類を表します)から区別します。アリストテレスは師プラトンのイデア論を批判し、真に実在するのはイデアのような普遍ではなく個物だと考えたのです。ともあれここから分かるのは、実体は他の範疇と同列に並ぶものではなく、格が上だということです。まず主語として「第一実体」があり、それにさまざまな範疇の述語がつけられるのですから。

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