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矛盾について(その268) ブログトップ

4月27日(水) [矛盾について(その268)]

 まず主語として実体があり、それにさまざまな範疇の述語がつけられる。これはぼくらが世界を「見る」ときの作法を教えてくれます。ぼくらは真っ先に、ある個物に注目するのです。そして「それはどのようなものか?」と問いかけ、その個物に“白い”、“上”、“人”、“歩く”などのさまざまな範疇を用いて迫っていきます。
 以前「クモの文法」という変なことを考えたことがあります。クモはすぐ近くに手ごろな獲物がいても一向に反応せず、自分の巣にかかった虫にしか興味を示さないそうです。それはクモが世界を「見る」ときの作法に関係しています。クモはある虫に注目するのではなく、自分の巣にかかっているかどうかという状態に反応するのです。
 ぼくらなら「ある虫が巣にかかった」というように、「ある虫」という個物(主語)と「巣にかかった」という状態(述語)とを区別するのです(だから、巣にかかっていようといまいと、同じ虫だと認識できます)が、クモは「巣にかかった虫」としか感じることができないのです。
 ぼくらは世界を「見る」とき実体と属性(主語と述語)を区別します。いや、ぼくらが何かを「見る」ということは、実体と属性とに分けるということに他なりません。しかしクモは虫が「巣にかかった」ことを「感じる」だけです。そのとき、「虫」と「巣にかかった」ことを切り離すことはできません。べったり一体となっているのです。

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