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矛盾について(その269) ブログトップ

4月28日(木) [矛盾について(その269)]

 ぼくらが何かを「見る」ということは、まず何ものか(実体)があって、それがどのようであるか(属性)を見るのです。何かを「見る」とき、属性だけがあって実体がないということは考えられません。性質や関係や状態だけがあって、実体はどこにもないという事態はかなりシュールです。
 誰かが「白い」と言ったとしましょう、そんなときとっさに「何が?」と思います。「白い」があるとすれば、白い何かがあるということです。あるいは「歩く」ということだけがあって、その実体がないとしますと、「幽霊だあ~」ということになります。こんなふうに、ぼくらが何かを「見る」ときは、そこに必ず何らかの実体がなければなりません。
 一方、何かを「感じる」ときは、感じていることがらを実体と属性に分けることができません。まず何ものか(実体)があって、それがどのようであるか(属性)と感じているのではありません。「悲しい」と感じるとき、「何が」悲しいとは感じません。悲しさがあるからには、悲しい「何か」があるはずだ、とは思わないのです。何が悲しいのか分からないが、ただ悲しい。
 前に共時性について考えたことがありますが、そこでこんなふうに言いました、「ぼくらは牛乳配達、小鳥のさえずり、朝刊の配達などの事象を継時的に見ているのではなく、明け方の中の布置として共時的に感じている」と。小鳥のさえずりを聞いて「あゝ、朝がきた」と思うとき、「小鳥」が「さえずっている」と思っているのではありません。明け方の布置のひとつとして「小鳥のさえずり」を感じているのです。そのとき、小鳥とさえずりとは一体で不可分です。

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