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矛盾について(その271) ブログトップ

4月30日(土) [矛盾について(その271)]

 「見る」モードと「感じる」モード。
 これを「継時性」のモードと「共時性」のモードと言い換えることもできます。継時性というのは、ものごとを原因と結果の時系列の中で見るということでした。「小鳥がチッ、チッとさえずる」というのは、まず小鳥がいて、朝がきたのでチッ、チッとさえずっている、というように、小鳥という原因があり、さえずりという結果があると捉えているのです。逆に、「チッ、チッ」というさえずりがあるからには、その原因としての小鳥がいなければならないと時系列を遡って捉えることになります。
 一方、共時性というのは、ものごとを一枚のカンバスの中の布置として感じるということでした。「チッ、チッとさえずる小鳥」が新聞配達などとともに明け方の布置の中にあります。小鳥のさえずりと新聞配達とが継時的に並べられることなく一枚のカンバスの中に収まるように、小鳥とさえずりも原因と結果に引き裂かれることなく、ひとつのものとして感じられているのです。
 「感じる」モードにあるときは、主体と客体あるいは実体と属性(主語と述語)といった道具立てから離れて、主体も客体もなく、実体も属性もない、一面べったりの世界にたゆたっています。それらの道具立ては、ぼくらがものごとを「見る」ためにかけなければならない特殊な眼鏡です。ぼくらが「見る」モードに入るときには、それらの眼鏡が不可欠で、それらなしで世界を見ようとしても、目の前は一面の混沌でしかないのです。まずは見る自分と見られる世界とをはっきり分け、ついで見られる世界を個々の実体とその属性に分けなければなりません。そうしてはじめてくっきりとした輪郭をもった像が浮かび上がるのです。

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