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矛盾について(その275) ブログトップ

5月4日(水) [矛盾について(その275)]

 「分かる」ということは「ことばになる」ことです。
 ことばというのは、ぼくらが世界を見るときの図式です。あるいは、世界を見るときの眼鏡です。それを通して世界を見るとき、世界はくっきりした像を結ぶのです。それが「分かる」ということです。「口の中でもごもご」とか、「シドロモドロになる」というのは、世界がくっきりした像を結んでいないということで、ことばを通して世界を見ていないということ、つまり分かっていないということです。「分かる」ということは「ことばになる」ことで、逆に「ことばにならない」のは「分からない」ことだとしますと、釈迦が悟りをことばにするのをためらったのは、実はまだ悟っていなかったということになるのでしょうか。
 釈迦の悟りが「世界をどう見るか」に関わることでしたら、たとえどんなに複雑で微妙だとしても、それが「ことばにならない」としますと、釈迦はほんとうに悟ったのかどうかあやしくなります。しかし釈迦の悟りが「世界をどう感じるか」に関わることでしたら、それが「ことばにならない」のは何の不思議もありません。ここから、釈迦が悟りをことばにするのをためらったというエピソードに何か意味があるなら、その悟りは「見る」ことではなく「感じる」ことだったという結論になります。彼はあるとき何か名状しがたい感覚に包まれ、「あゝ救われた」という喜びに浸ったのですが、それをことばにしようとしても思うようにならないのです。周りから「ぜひ教えてほしい」と懇請されても「ことばにならない」のですから如何ともしがたい。

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