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矛盾について(その281) ブログトップ

5月11日(水) [矛盾について(その281)]

 ここまで来て、前の「見る自分」と「見られる自分」の二重化の問題(279)に戻ることができます。なぜ自分が二人に分かれてしまうのか、この不可解な現象の正体は何かを検討してみましょう。
 太郎と次郎の「つながり」を考えてきましたが、太郎が次郎との「つながり」を見るとしますと、こちらに自分がいて、自分と次郎がつながっているのを見ています。そこには何らかの目的意識が働いているはずで、それは、自分と次郎とのつながりはどのようなものか、二人の間の紐帯の本質は何かを見定めようとしているのです。二人のつながりの本質を見定めようとするのは、次郎との関係をどうしていくかを考えるために他なりません。
 こうして「見るつながり」は「つくるつながり」と結びついてきます。
 前に、「感じるつながり」との対比でこう言いました、「感じるつながり」は「向こうから」に対して、「つくるつながり」は「こちらから」だと(259)。「感じるつながり」は「もうすでに」その中にあると感じるのですが、「つくるつながり」は「これから」つくりださなければなりません。すでにつくられている場合でも、それを守る努力を続けなければなりません。「つくるつながり」は日々つくり続けなければならないのです。
 さて、次郎とのつながりを「見る」というのは、これまでの自分と次郎との「つながり」を点検することに他なりません。なぜ点検するかと言えば、「これから」もその「つながり」を守っていかなければならないからです。そのためには、これまでの二人の関係をよく見て、そこに何か問題があれば修正していかなければなりません。「つながり」を「見る」のは「つながり」を「つくる」ために他ならないのです。
 かくして「つながり」を見る自分と、「つながり」の中にある自分との分離が明らかになってきます。「つながり」を見ている自分は、自分と次郎との「これから」について思いを巡らしています。一方「つながり」の中にある自分は、これまでの自分です。これまで次郎との関係の中でつくられてきた自分です。

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