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矛盾について(その284) ブログトップ

5月14日(土) [矛盾について(その284)]

 ぼくがこれまで述べてきました「する」ことと「いる」ことは、芹沢=ウィニコット説のように「自己」の構造を捉えようとしているのではありません。ぼくらが「生きている」ことを「する」という面と「いる」という面から見ようとしているだけです。
 ぼくらが生きているということは、大小無数のことを「する」ことに他なりませんが、しかし、そうしたさまざまなことを「する」ためには、この世に「いる」ことが必要だというごく当たり前のことです。
 そして「する自己」と「いる自己」としないのは、「する自己」とは言えても「いる自己」とは言えないからです。さまざまなことを「する」のは自己ですが、この世に「いる」のは自己ではないのです。「えー、どういうこと?」という声が聞こえますので、重複を厭わずもう一度検討しておきます。
 何かを「する」ためにはそこに自分がいなければならないのは言うまでもありません。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったのはそのことです。何かを「する」ためには、それをしようと「思う」ことが必要です。そしてそのときには、そこに必ず「われ」がいます。これがデカルトの「われ」で、したがってこれは「する自己」です。決して「いる自己」ではありません。
 でもここに「ぼく」が「いる」じゃないか、これは「いる自己」ではないのかと言われるでしょうか。もっともだと思いますが、よく見てください、そこに「いる」あなたは「する自己」です。
 「いる」には二種類あるのです、どこかある特定の場所に「いる」と、この世に「いる」。ぼくはいま自分の部屋でワープロのキーボードを叩いています。部屋の中に「いる」のですが、これはワープロのキーボードを叩くことと同じく、実は「する」ことです。

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