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矛盾について(その316) ブログトップ

6月15日(水) [矛盾について(その316)]

 「いる」こと(の気づき)は求めないのに与えられると言いましたが、一体どのようにして与えられるのでしょうか。
 見知らぬ方から思いがけず「こんにちは」と声をかけていただき、それがふと「そのまま生きていていい」と聞こえたとき、「いる」こと(の気づき)が与えられたのだと述べてきました。そのことで「あゝ、このまま生きていていいのだ」という何とも言えない喜びが与えられるのです。
 でも「こんにちは」が「こんにちは」としか聞こえなかったら、ただの挨拶にすぎません。どなたか知らない方から挨拶が贈られ、それにこちらも「こんにちは」と返すという、ほのぼのした光景ではありますが、「する」ことのやり取りが行われただけです。それが「いる」ことの贈与になるというのは、どのようなわけでしょう。
 ぼくらは周りに空気があることを意識しないで生きています。ではどんなときにそれを意識するかと言いますと、山登りなどをして、何故か息苦しく、ふと「空気が薄いのではないか」と不安になるのです。同じように、ぼくらは普段「この世にいる」ことを意識しないで生きているのですが、あるときふと「このままこの世にいていいのだろうか」と不安に襲われます。
 空気があることは、「空気がある」と肯定的に意識されることなく、「空気が薄いのではないか」と否定的に意識されるのですが、同じように、「この世にいる」ことも、「この世にいる」と肯定的に意識されることはなく、「この世にいていいのか」と否定的に意識されるのです。

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