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6月20日(月) [矛盾について(その321)]

 先回こう言いました、「このままで救われるはずがない」という悲しみと「このままで救われる」という喜びという矛盾するものが揃ってはじめて完結するというのはどういうことかと。
ポイントは「信じる」ことにあります。
 ぼくらが普通に「信じる」と言うのは、先のことは分からないが、ある可能性に賭けようというような場合です。「きみの言うことを信じる」というのは、例えば友人から「明日必ず返すから1万円貸して」と言われたときです。ひょっとしたらきみはウソをついているかもしれないが、そうじゃない可能性に賭けましょうと言っているのです。この言い回しから明らかなように、信じるか信じないかをこちらから決断しています。ある人に、あるいはあることがらに信を与えているのです。
 これが通常の信ですが、もうひとつ別の信があります。向こうから思いがけず迫ってきて、否応なく信じてしまうという場合です。こちらが信じるか信じないかを選ぶのではなく、もう気がついたら信じてしまっているのです。こちらから「与える信」ではなく、向こうから「与えられる信」。
 善導のいう信はこの「与えられる信」でしょう。それは「機の深信」をみれば明らかです。こちらから「この身で救われるはずがない」ことに賭けるとは考えられません。こちらから賭けるとすれば「この身でも救われる」の方でしょう。少しでも救われる可能性があることを信じると思います。
 やはり「この身で救われるはずがない」という思いは向こうからやってきて、有無を言わせずムンズとひっつかまえるのです。気がついたらもうすでに捉えられている。ですから、どうしてあなたはそんなことを信じるのですかと尋ねられても、「これはもうぼくが信じているのではありませんから」と答えるしかありません。
 この「信」は「気づき」なのです。

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