So-net無料ブログ作成
矛盾について(その322) ブログトップ

6月21日(火) [矛盾について(その322)]

 善導の言う「深信」とは「気づく」ことで、それはこちらから手に入れるものではなく、向こうから「与えられる」ものだということでした。
 そこで、もう一度「法の深信」(この身のままで救われる)だけがあれば事足りるではないかという先の問いに戻りますと、この「気づき」はそれだけで与えられることはないのです。この「気づき」が与えられるには、「機の深信」(このままでは救われない)というもうひとつの「気づき」が先だって与えられていなければならないのです。ここには、何かが「ある」ことにからむ特殊な事情が関係してきます。
 何かが「ある」ことは、自分が「いる」ことも含めて、こちらからそうしようと思っても意識できるわけではなく、向こうから否応なく意識させられます。そして何かが「ある」ことは、それが問題化してはじめて主題として浮かび上がるのです。空気が「ある」ことは、山登りなどをしてそれが薄くなったときに主題として前面に躍り出ます、「あれ、空気が薄いぞ」と。
 自分が「いる」ことも、それが問題化してはじめて意識されるということでは他の場合と何も変わりません。ただその問題化のされ方が違うのです。自分以外の何かが「ある」ことは、そこに非在(「ないのではないか」)のモメントが入ってくることで主題化するのですが、自分が「いる」ことは、そこに倫理(「いてもいいのか」)のモメントが入ってきてはじめて主題化するのです。かくして「このまま生きていていいわけがない」という呻きが漏れる。
 「いる」ことの前に吊るされるのです。

矛盾について(その322) ブログトップ