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矛盾について(その327) ブログトップ

6月26日(日) [矛盾について(その327)]

 弟子たちは「知る」モードにいるのです。
 しかし親鸞はそんな彼らを突き放します。わたしが念仏往生の根拠を知っていながらそれを黙っていると思い込んでおられるとしたら、それはとんでもない間違いです、と。そして、わたしとしては、ただ念仏して阿弥陀仏にお救いいただけばよい、と法然上人から教えられ、それを信じること以外に何もありません、と言うのですが、この「信じる」というのは、自分も法然上人と同じように「感じている」ということに違いありません。
 親鸞は「感じる」モードにいるのです。
 それが最もはっきりするのが、この後に続く「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」の文言です。念仏して救われるのか、はたまた地獄に堕ちるのか、そんなことは知らないと言うのですが、この「総じてもて存知せざるなり」は、単に知らないということではないでしょう、それは知ることではないと言っているのです、それは感じることなのだと。
 知ることには知ることば(事実を記述することば)があり、感じることには感じることば(感情を表すことば)があります。ぼくらは自分ではこの両者を無意識のうちに使い分けていますが、他の人との会話の中ではときどき混線することがあります。少し前に「嬉しい」と喜んでいる人に「どうして?」と尋ねるケースを上げましたが、ここにもその不幸な例が見られます。嬉しいのにどうしてもこうしてもありません。もちろん嬉しさをもたらしてくれた原因について答えることはできるでしょうが、嬉しさそのものに根拠なんかありません、嬉しいから嬉しいのです。

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