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矛盾について(その329) ブログトップ

6月28日(火) [矛盾について(その329)]

 『歎異抄』第2章に戻りますと、関東からやってきた弟子たちは「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」という肝心要のところを「感じていない」のです。これまで感じたことがないのです。だからそれを何とかして「知ろうとする」。「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」と言うからには、何かしっかりした根拠があるはずだ、それは一体何かと。しかしそれを感じている親鸞から言いますと、あなた方はとんでもない勘違いをしているということになります。わたしはただ感じているだけですから、そこに何の根拠もありませんと。
 先の「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」に続いて親鸞はこう言います、「たとひ法然上人にすかされまひらせて(だまされて)、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」と。この部分はしばしば「信じることの力」を言い表していると受け取られます。念仏の教えは、それが正しいかどうかを知ろうとするものではなく、それに自分のすべてを賭けることができるかどうかだと。それに賭けることができれば、たとえ「すかされても」いいではないか。そのように思えるのがほんとうに信じるということだと。
 念仏の教えは、それが正しいかどうかを知ろうとするものではないというところまではその通りだと思いますが、それに自分のすべてを賭ける、というのはいかがなものでしょうか。キリスト教に「不合理なるが故に、われ信ず」ということばありますが、これは知ることと信じることを対立させ、知ることが終るところで信じることが始まると捉えています。理性の限界外のところでは信じるしかないと。親鸞が「さらに後悔すべからずさふらふ」というのは、それとは微妙に違うように思います。

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