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矛盾について(その345) ブログトップ

7月14日(木) [矛盾について(その345)]

 「信じる」ことに優劣などないにもかかわらず、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はをとりなり」と争う中で、「信じる」ことが変質していきます。「信じる」ことが「わがもの」となってしまうのです。そもそも優劣を争うのは「わがもの」と「ひとのもの」との間です。これは「わがもの」であると思うから、けなされると腹が立ち、「ひとのもの」との間で優劣を競おうとするのです。そして「わがもの」とは「自分の力で獲得したもの」ということです。それが誰かから与えられたものであるとしても、自分が求めて与えられたのでしたら、それは「自分の力で獲得したもの」に他なりません。
 ところが「信じる」とは思いがけず「感じる」ことです。気がついたら弥陀の本願に包み込まれていたのです。それは「わがもの」ではなく徹頭徹尾「ひとのもの」です。にもかかわらず争いあっているうちにいつの間にか「わがもの」となってくる。親鸞が「如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまうすにや」と言うのはそのことです。自分の力で信じていると思い、ひとにも自分の力で信じさせていると思い、だからそれが誰かからけなされると猛然と立ち向かっていく。「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はをとりなり」といきり立っている人は、こんな倒錯の中にいるのだと言わなければなりません。
 宗教と社会の対立、あるいは宗教と宗教の対立について考えてきました。
 今日では、それぞれの信仰を持つことが基本的人権として認められ、特定の信仰を持つことを理由に迫害されないように計らわれていますが、実際問題として複数の信仰が並存しているときには、そこにさまざまな摩擦が生じることは前に述べた通りです。

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