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矛盾について(その354) ブログトップ

7月23日(土) [矛盾について(その354)]

 聖道の慈悲と浄土の慈悲とは、どこがどう違うのでしょう。
 まず「聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり」とあります。聖道とはこれまでの仏教、浄土の教えが世に現われるまでの仏教のことで、法然が浄土宗を開くまでの伝統的な仏教のことですが、当然のことながら慈悲が尊ばれてきました。
 仏教はそのはじめから慈悲を説いてきました。ゴータマ=シッダールタのことばとして伝えられる『スッタニパータ』の中に「慈悲の章」がおかれ、そこには「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」とあり、「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし」とあります。
 大乗仏教の登場は、慈悲の教えを中心へと押し上げます。「みんなが救われてはじめて自分も救われる」のですから、一切衆生の救済を優先させなければならないとするのが大乗です。こうした伝統がずっと受け継がれてきているのです。しかし親鸞は言います、「しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」と。このことばはこれまで培われてきた貴重な慈悲の教えに冷や水を浴びせかけるようなものではないでしょうか。「ものをあはれみ、かなしみ、はぐく」もうとしても「おもふがごとくたすけとぐること」など所詮無理だと。
 津波に一切合財さらわれて、茫然自失している人がいます。そのひとを「あはれみ、かなしみ、はぐくむ」ことができないのか。

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