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矛盾について(その400) ブログトップ

9月7日(水) [矛盾について(その400)]

 浄土思想において「往相と還相」は最大の難関です。娑婆から浄土へ往くのが往相で、反対に浄土から娑婆へ還ってくるのが還相ですが、往相はいいとしても、還相に躓いてしまうのです。浄土は死後の世界でしょうから、そこから娑婆に還ってくると言われても雲をつかむような頼りなさです。そして、そもそもどうして還相があるかというと、娑婆で苦しむ衆生を利他教化するためとされます。つまり往相は自分のためで、還相がひとのため。としますと、いまこの世にいる間は自分のためで、ひとのためはのちの世でとなり、これまた「なんだかなあ」と思ってしまいます。
 前に『歎異抄』第4章の問題を考えました。「今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらふ」の段ですが、これが往相・還相の問題と直結していることは言うまでもありません。もし、まず往相があり、しかる後に還相だとしますと、今生では利他のこころを働かせようにも、「存知のごとくたすけがた」いのですから、ただ念仏するだけです、というように、「ひとのため」に働くのをのちの世に先送りする考え方となります。これがしかし親鸞の言おうとしたことであるとは到底思えません。
 この疑問に金子大栄氏は次のように答えてくれます、「実は、往相の内に、すでに還相の徳を含んでいるのです。行きも帰りも一つです。浄土へ行くというその働きによって、われわれはこの世へ帰ることができる。いいかえれば、浄土を願うことによって、われわれは現実の生活を本当のものにすることができる」と。短いことばからその真意を汲み取るのはなかなか大変ですが、少なくとも、まず往相、しかる後に還相というように分かれていないということは読み取れます。「行きも帰りも一つ」なのです。

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