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矛盾について(その401) ブログトップ

9月8日(木) [矛盾について(その401)]

 事情があり、更新が遅れました。
 普通はまず行って、しかる後に帰るものですが、行くこと(往相)がそのままで帰ること(還相)であると金子氏は言うのです。
 「月を見る」という譬えで考えてみますと、ぼくらが月を仰ぎ見るとき、月そのものははるか「ゆくて」にあります。でも月の光は「いまここ」に届いています。そのように、ぼくらが浄土をめざすとき、浄土ははるか「ゆくて」にありますが、「帰っておいで」という声は「いまここ」に届いています。そしてその声が「いまここ」で生きていく力となっているのです。「ゆくて」を目指して行きながら、そのままで「いまここ」に帰っているのです。浄土をあこがれることは、穢土を見向きもしないということではありません。反対です。浄土をあこがれることが、穢土で真剣に生きようと思う力となるのです。
 それにしても「浄土を願うことによって、われわれは現実の生活を本当のものにすることができる」とは、どういうことを指しているのでしょう。金子氏はこんな話を教えてくれます。「森が焼けた。すると鳩がどこかの池で羽を水びたしにしてきて、その森の火を消そうとする。そんな羽ばたきの水くらいで森の火が消えるはずがないけれども、鳩は一心に消そうとしている。そのこころは、この森に恩がある。この森に育って、この森によって自分は一羽の鳩となることができたのだ。その恩を思えば、森が焼けるというのにじっとしておれない、ということです」。
 この鳩の話は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を思い起こさせます。

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