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矛盾について(その416) ブログトップ

9月23日(金) [矛盾について(その416)]

 これまで帰命とは単に願うことだと言われてきたのが、親鸞によって、それは仰せに従うこととされるのです。
 仰せに従うということになりますと、まず仰せがあるわけです。どこからか声が聞こえるのです。欲を起こしたり腹を立てたりしたときに、「それは煩悩というものだ」という声がして、「あいすみません」と頭が下がります。でも同時に「そのまま生きていていい」という声がして、「ありがたい」と喜びがあふれ出る。
 まず仰せがあり、それにうなずく。
 このように帰命が仰せに従うことだということがはっきりしますと、帰命は願いであると言われてきたことも、われらが勝手に願うのではなく、われらが願うその底で実は願われているのだと了解できます。願われているからこそ、願うことができるのだと。
 「命」とは「仰せ」であるということは、「命」とは「ことば」だということです。『聖書』は「はじめに言葉があった」で始まりますが、ここでも同じです。ぼくらは仏とか如来と聞きますと、何らかの存在―大いなる「いのち」―をイメージしますが、それは実は「仰せ」であるということ、つまりは「ことば」であるということです。
 「帰っておいで(南無阿弥陀仏)」という呼び声、これが阿弥陀仏であり、これ以外に仏はいません。

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