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矛盾について(その440) ブログトップ

10月17日(月) [矛盾について(その440)]

 「毒矢のたとえ」は、いろいろなことを考えさせてくれる非常に優れた説話ですが、いまの阿弥陀仏の実在の問題についても大事な示唆を与えてくれます。
 金子氏は、阿弥陀仏の実在が証明できないうちは、本願を信じることも念仏を申すこともできないと考えたのですが、本願の呼びかけが確かに「帰っておいで」と聞こえているなら、その呼びかけがどこからくるのか、呼びかけているのが誰であるかなどと詮索する必要があるでしょうか。呼びかけているのがどのような存在であるのか、ほんとうに実在するのかがはっきりしないうちは、「帰っておいで」の呼びかけを信じないでしょうか。その呼びかけに「ただいま」と応答しないでしょうか。
 肝心なことは毒矢に射られたということ、いまの場合は「帰っておいで」の呼びかけが聞こえたということであって、その毒矢がどこから来たか、「帰っておいで」の呼びかけがどこから来たかではありません。そして直ちにしなければならないのは毒矢を抜くこと、いまの場合は「ただいま」と応答することであって、毒矢を射たのは誰であるか、「帰っておいで」と呼びかけているのが誰であるかを詮索することではありません。
 しかしこんな反論があるかもしれません、なるほど毒矢の場合はすぐ抜き取とらなければならないだろうが、「帰っておいで」の呼びかけの場合は、その声の主を確認することが先決ではないか、と。

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