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矛盾について(その443) ブログトップ

10月20日(木) [矛盾について(その443)]

 金子大栄氏のことばを追っているのですが、彼が述べていることは一本の糸でつながっていると思えます。阿弥陀仏は実在するのかとか、浄土はどこにあるのかという話よりも、日々の生活の中に問題を掘り出し、それを互いに尋ねあうことが大事で、その中から阿弥陀仏や浄土がおのずと浮かび上がってくるということです。日々の生活の中の問題とは、「いまから考えれば、あのときは腹をたてねばよかったのだ、けれどあの場合はどうしてそうなってしまったのだ」というようなことです。
 神は細部に宿りたまうと言います。日々の些事の中にいちばん肝心なことがポロッと姿を現す。キーワードは懺悔でしょう。
 あのときどうしてあんなに腹を立ててしまったのかと思う。これは普通の道徳とは異なります。普通の道徳とは、何か非常に腹立たしいことに直面したとき、「いや、ここで腹を立ててはいけない」と衝動を抑えることです。「ねばならない」というのがいわゆる道徳感情、つまり義務感です。
 しかしいま問題になっているのは、腹をたててしまってから「なんであのとき」と臍を噛むことです。そのとき一方では、どうしようもない宿業を感じます。そうなるべくしてそうなってしまったという感覚。しかし同時に「宿業であったと肯定するのではなく、宿業といいながら、あんなことをしてすまなかったという感情」があります。懺悔です。もう済んでしまったのに「済まない」と思うのです。
 ここには悲しみがあります、「こんな自分」という悲しみ。これこそ宗教感情というものでしょう。

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