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矛盾について(その444) ブログトップ

10月21日(金) [矛盾について(その444)]

 普通の道徳では、「ねばならない」と思って衝動を抑えることができた時、ある達成感を持ちます。勝利感と言ってもいい。理性が欲望をねじ伏せたという感覚です。その時、衝動を抑えられず、欲望に操られている人がいますと、「何だ、あいつは」と思ってしまいます。こうして「われは善人なり、なんじは悪人なり」という差別感が生まれるのです。こんなふうに人間に線を引いてしまうのが普通の道徳の困ったところです。そのとき同時に「すみません」がないとカサカサの社会になってしまう。「すみません」が潤いを与えてくれるのです。
 「ねばならない」と「すみません」。
 金子氏はこんなふうに言います、「悪人がすまなかったという気持ちになるとき、善人はその悪人の涙に洗われて、われわれはわずかなものをほこっておったのだということで、背後の世界において、善人も悪人も手を取りあえる場所がなくてはならないと思います」と。「ねばならない」に従えないのが悪人ですが、その悪人が「こんな自分ですみません」という気持ちになるとき、「ねばならない」に従った善人も、自分はたまたま「ねばならない」に従うことができただけと謙虚な気持ちになることができ、双方が手を取り合うことができるということでしょう。
 「(こんなわたしが)生きていてすみません」と思うところから、「(こんなわたしが)生きていてありがたい」と思えるようになるのです。
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