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矛盾について(その445) ブログトップ

10月22日(土) [矛盾について(その445)]

 『歎異抄』に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」ということばがあります。それに関連して金子氏はこんなふうに言います。「五劫思惟の願は普遍的なもので、一人ももらさない本願というのは、なんのためかというと、一人でももらしたら親鸞をもらすことになる。だから一人でももらさないというのは、要するに、親鸞をもらさないということになるんではありませんかな」。
 「一人ももらさない」ということと「親鸞一人がため」ということは同じだと言うのです。
 こんなふうにも言います、「誰か一人でも救われない、あるいは除外であるとして、はねのけるものがあるということは、他人をはねのけたようであるけれども、実は自分をはねのけることでしょう。あんなのはお浄土へ往けないと、他人のこととしているときには、はねのけられます。しかし、あんなのは、というのが自分の中にもあるのだから、人をはねのけることは自分をはねのけることになる。かるがゆえに、すべての人が救われる道でなければ、自分も救われないのです」と。
 ここには普遍(一切衆生のため)と個別(親鸞一人のため)についての深い思索があります。しかし、「一人でももらしたら親鸞をもらすことになる」、「人をはねのけることは自分をはねのけることになる」とは一体どういうことでしょう。

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