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11月14日(月) [矛盾について(その468)]

 もし仏教が文化の上に君臨するのでしたら、お茶をいただくことは否定されるかもしれません、白湯を飲みなさい、と。ちょうどイスラム教がアルコールを禁止するように。でも、仏教は文化の底にあって、それを支えているのです。お茶をおいしくいただくことも、ただそれだけを取り出してみれば、煩悩として否定されるでしょうが、仏教によって支えられることで、煩悩が煩悩のまま菩提となるのです。
 「その底にあるものの願いは、芸術はよき芸術になりたい、哲学はよき哲学でありたいということです」とはそういう意味でしょう。
 思い出したことがあります。法然のことです。「この世でどのような生活をするかは、念仏を第一に考えて、念仏しやすいように生活すべきです。念仏の妨げになるようなことはどんなことも避けなければなりません。独身僧として念仏できなければ、妻帯して念仏しなさい。妻帯して念仏できなければ、独身僧として念仏しなさい。家で念仏できなければ、旅の中で念仏しなさい。旅の中で念仏できなければ、家で念仏しなさい。自分で稼ぎながら念仏できなければ、他人の布施で念仏しなさい。他人の布施で念仏できなければ、自分で稼ぎながら念仏しなさい。一人で念仏できなければ、みんなと一緒に念仏しなさい。みんなと一緒に念仏できなければ、一人で念仏しなさい。云々」。
 これはうっかりすると「イスラム原理主義」ならぬ「念仏原理主義」のように見えます。念仏が生活のすべての原理でなければならないと。でも全く逆です。念仏が底にあれば、どんな生活であれ「それでいい」のだということです。念仏に支えられてさえいれば、白湯だけの生活をしようが、おいしいお茶をいただこうが「それでいい」のです。

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