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矛盾について(その476) ブログトップ

11月22日(火) [矛盾について(その476)]

 「声を出すのははずかしくて」と言う以上、そこには自分がいます。この自分が念仏すると思うから「はずかしくて」となります。しかし「純粋な宗教感情というものがある。その宗教感情というものをそのまま表現したものが、南無阿弥陀仏というものなんでしょう」と金子氏は言います。純粋な宗教感情がおのずとかたちを取ったものが南無阿弥陀仏だと。
 まずこちらに自分があり、あちらに仏があって、こちらから南無阿弥陀仏と称えるのではなく、まず南無阿弥陀仏という宗教感情の発露があって、しかる後に自分と仏があるのだということです。ちょうど「見るという事実があって、初めて目があり、光があるということがいいうる」ように。
 さて、ここには純粋な宗教感情は南無阿弥陀仏というかたちを取るものだという前提があります。このことばのすぐ後のところで「南無観音でも南無薬師でもいいではないかというけれども、それはいけないのです。南無観音、南無薬師というときは薬師や観音の存在を明らかにし、こちらがおがむ理由を明らかにしなければいけない」と言っています。
 なるほど、ぼくらが観音菩薩や薬師如来に向き合うときは、たいてい何か願いごとをこころに抱いています、病気が治りますように、などと。これは純粋な宗教感情の発露とは言えないということでしょう。それはその通りだと思いますが、しかし、それにしてもなぜ南無阿弥陀仏でなければいけないのでしょう。

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