So-net無料ブログ作成
矛盾について(その488) ブログトップ

12月4日(日) [矛盾について(その488)]

 浄土教にとって「浄土とは何か」がもっとも根本的な問いでしょう。なにしろ浄土へ往生することを願うのが浄土教ですから。ところが、われら現代人にとって、浄土にまつわる二つの疑問が躓きの石となります。ひとつは、浄土は「死んでから」往くところであるということ、ふたつは、「西方十万億土のかなた」にあるということ。「死んでから」はさておいて、「十万億土のかなた」について考えてみようと思います。この世界(娑婆)と浄土との空間的関係です。
 金子氏はこんなふうに言います、「浄土というものは日本の向こうに中国があり、中国の向こうに印度があるというのと同じように、ここに娑婆があり、十万億土の仏土をすぎて西へ行くとそこにお浄土があり、そこに行くのである。そんなふうにおもうと、それは要するに同一次元であるとわたしはいうのです」と。そして「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」という世親の『浄土論』の一節を引き合いに出し、「三界というのはつまりわれわれが経験している人生であり、勝過はそれを超えている世界である。今日の言葉でいえばより高き次元の世界ということである」と言います。
 同一次元にあるのではなく、より高い次元にある世界。
 これまで何度となく「向こうから」という言い回しをしてきました、「そのまま生きていていいのか?」という声が「向こうから」聞こえるというように。普通「向こうから」と言いますと、文字通り「あちらの方から」ということで、場所は特定できないが、とにかく「こちらではないどこかから」という意味です。「向こうから妙なる笛の音が流れてきて、それにうっとり聞きほれた」とありますと、ぼくらの関心は「一体どこの誰が笛を吹いているのだろう」というところに向かいます。この場合、「向こう」は「こちら」と同一次元にあります。

矛盾について(その488) ブログトップ