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矛盾について(その498) ブログトップ

12月14日(水) [矛盾について(その498)]

 浄土と聞くと、それはどこにあるかという反応が起こるが、「あいすみません」によって煩悩が浄められるという事実にこそ、浄土が存在する何よりの証拠があると述べてきました。それに関連した金子氏のことばを引いておきましょう。
 「『阿弥陀経』のなかに『これより西方、十万億土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という』と書いてある。西方十万億の仏土を過ぎて、そこへ行けば浄土があるというが、なにもそこへゆけばあるというのではなく、そこに浄土があるのだ。それであるのに、そこへゆけばとかんがえるのはまちがっている。ものはみなちゃんと見場所でみなければならん。富士山はどこにあるかというたら、御殿場でみるのがいちばんいい。それでは御殿場へ行って、もっと歩いて裾野へ行ったらさらによく見えるかというとそうとはかぎらない。」
 「そこへ行けば浄土がある」と言うものですから、「誰も行ったことがないのに、どうしてあるといえるのだ」という反応が返ってくるのです。行かなくても、いま現に煩悩を浄める働きをしているのですから、あるに違いありません。それ以上にどんな証拠がいるというのでしょう。金子氏の言われるように、富士山があることを確認するのに、そこまで行かなくてもいいのです。
 『教行信証』に「伊蘭と栴檀」のたとえが出てきます。伊蘭というのは強烈な悪臭を放つ樹で、その華や実を食べると狂い死にしてしまうという大変な代物です。一方、栴檀は「双葉よりかんばし」と言われるように、その香りはあたりに漂います。さて、四十由旬四方(由旬とはインドの距離の単位で、一由旬は一日の行軍の距離です)の伊蘭の林に一本の栴檀の幼木があるだけで、伊蘭の強烈な悪臭が栴檀の芳香に変わってしまうというのです。

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